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改めて、南京大虐殺   文科系

2013年12月24日 10時08分47秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 この事で過去にこのブログは討論を繰り返してきた。それを知らない新しいネトウヨ諸君が繰り返し訪れるからだ。過去の議論を、再掲したい。
先ずは、亡くなられたへそ曲がりさんの思い出から。

『 偕行社  へそ曲がり 2008年01月23日
【偕行社】という団体がある。いったい何ものか。
 昭和60年頃、南京大虐殺否定論がはびこる中で、それに乗っかろうとした旧日本軍将校の親睦団体があった。
 ここでは旧日本軍将校の畝本 正巳氏が中心となり、「証言による南京戦史」を機関誌「偕行」に連載、出版することにした。ところが、意に反して寄せられた将校たちの体験談には《虐殺を体験した、見た》というものが多く、否定し切れなくなってしまった。
 そのため連載終了後の「その総括的考察」は畝本原稿が「ボツ」になり、編集部が執筆するという異例の事態となった。そこでは、“中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった。”と虐殺の事実を認めるという結果になった。
 しかも、「その総括的考察」の執筆過程で、防衛庁戦史室にも相談しているという事実もあり、防衛庁も南京大虐殺の事実を公認するというおまけまでついたという曰く付きの連載であった。
 これ以後、ごくごく一部を除いて否定論はなくなり「人数過少評価論」が登場することになったという、そういうきっかけを作った親睦団体が【偕行社】である。
 南京事件が日本の侵略戦争の象徴とされるのは、兵士だけでなく多くの人々を大量虐殺したことにある。捕虜、投降兵、敗残兵の虐殺は、日本も加盟していた戦時国際法に明確に違反したものだった。ハーグ陸戦条約(1899年採択、1907年改正)がそれである。
 南京事件の実態は、国際的にも日本政府も含め多くの当事者が認めており、歴史的にも学問的にもすでに決着がついた問題である。
 今日、日本の外務省はホームページで「日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、多くの非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定できないと考えています」と明確に認めている。』

 次に、同じへそ曲がりさんのこんな文章もありましたね。右翼はたびたびこんな策動をする(けど、裁判では負けてきた)ということで掲載しておきます。

『 夏 淑琴さん 東京高裁でも勝訴  へそ曲がり 2008年05月31日
 南京大虐殺の被害者・夏 淑琴さん(79歳)が書籍『「南京虐殺」の徹底検証』の中でニセ被害者扱いされたのは不当として、著者の東中野修道氏(亜細亜大学教授)と出版社の展転社を提訴していた事件で、東京高裁(柳田幸三裁判長)は21日、原告・被告双方の控訴を棄却した。
 夏さんは1,500万円の損害賠償などを求めており、東京地裁は昨年11月2日、名誉棄損と名誉感情侵害を認め、翻訳版も含めて計400万円(弁護士費用含む)の支払いを被告らに命じていた。
 1937年12月、南京城内の夏さん宅に旧日本軍が押し入り、家族9人のうち7人が殺害され、当時8歳だった夏さんも重傷を負った。母と2人の姉は輪かんされたうえの殺害だった。夏さんは80年代以降、この被害・目撃体験を証言するようになった。
 高裁審理で、被告らは新たな主張をし始めた。①夏さんの家族の遺体をマギー牧師が撮影したとされる16ミリフィルムがあるが、日本軍入城前に撮影されたもので捏造だ、②マギー牧師によるフィルム解説文もあるが、同氏による創作文だ、③夏さん一家は中国軍に殺害された。
 しかし高裁判決は、被告・東中野氏による一審陳述書で「フィルム解説文は、マギー牧師の創作話(中略)などとは全く述べていなかった」とし、被告らの主張を切り捨てた。』


 状況証拠もきちんと上げておきましょう。
 南京陥落の約1ヶ月前の37年11月9日まで、上海陥落の闘いがありました。3か月続いた激戦で、中国軍70万の内19万が亡くなったと言われています。その敵兵が300キロ西の首都南京めざして揚子江を上り退却していきます。時あたかも蒋介石からは「南京死守」の命令も下っていたのでした。上海を陥落させた日本軍は勇んで退却兵を追撃することになります。帝国陸軍中央も12月1日「南京攻略を追認」としました。「目指すは敵の首都! これで戦争が終わる!」兵がどれだけ勇んでいたか。食料部隊なども待たずに糧秣現地調達で、雪崩を打つ敗軍に対して先陣の功を競う大進軍となったのでした。
 一方南京は高さ19メートルの城壁都市。いったんそこに逃げ込めば、退却には全く不向きな要塞です。これを包囲した日本軍に対して、中国軍約15万は12月12日の夜から13日朝にかけて日本包囲網を破って退却を試みました。揚子江左岸目指して逃げるとか、中国軍兵の常で民間人に化けるとか。揚子江岸における船の奪い合いは、凄惨を極めたと伝わっています。「民間人」が撃たれ、河辺の大虐殺もあったのです。

 最後にもう一つ。そもそも、こんな共同研究さえ有りました。安倍首相時代、両国首脳の肝いりで始まった『日中歴史共同研究』の報告書です。犠牲者数こそ双方主張の両論併記となったが、『あった』ことでは一致しているということ。

 こんな歴史的状況まであったことについて虐殺を否定したら、ただのアホでしょう。さらにこんなことも二つ重なったのでした。これは戦争ではありません。開戦すればアメリカからの石油や鉄の輸入が禁止されるなどの弱みがあったので宣戦布告もないままにこういうことに及んだのですから、「捕虜」をどうしようと構わないし、誰を捕虜にして良いかさえも分からなかったのです。戦争ではないのだから、最初から大虐殺と言うしかありません。ここにまたもう一つ、こんなことも付け加わっていました。陸軍歩兵学校が配った「対支那軍戦闘法の研究」中の「捕虜の取扱」には、こんな2か条があったのです。
『支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者』
『仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し』
 これって、殺せと言っているも同じでしょ。本当に、酷いもんだ。
コメント (4)
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