日々の気付き

自分への提言

真の類

2020年06月23日 20時51分33秒 | 日記
 「個」「個体」という概念(言葉)を用いるなら、万人万物万象は、全て、「個」に類せられる―空間も「個」であるし、蠅や山、何某も「個」である。
 「個」に属しない者、つまり、「個」の類でない者は何か?
 私たちが各「個」を見出す時、私たちは類の風呂敷を広げる。
 「個」である上に、それは何かの「類」に属するのである。
 「個」としての私は、宇宙全体の意思から印象を受け、自らのイマジネーションによって、万象に干渉することが出来る。
 それでは、別の「個」はどうであるのか?―おそらく、私と同じく何かを生み出しているであろう・・・印象の感知を起点として、無限のバリエーションの中で、自らの願望を具体化しているはずである。
 ところで、上記の類(たぐい)という認識は、私たちにとって必要であろうか?―と言うのも、同じ製造ラインで同時に作られたボールペンの「個々」は、「同じ」と言えないからである。
 私たち人間どうしが自他を認める様に、1つ1つのボールペンもまた、自他を認めるはずである。
 私たちの独自的な願望には、「類」の概念が含まれる―しかし、願望の全ては、宇宙全体の意思から与えられるのであり、その意思の心には、類型という概念は無いはずである。
 したがって、私たちが何かを願い、現実化する時、その現象は「個」によって構成され、「同類」による代替は在り得ない。
 私たちが「象の曲芸」を望むなら、それを行なう象は、初めから、ある1頭に定められているのである。

私を知る者

2020年06月23日 20時38分04秒 | 日記
 彼は、私を知る者でありながら、他人が私を見るその見方をも知り、なおかつそれらの見立てを容認している。
 彼は私に関する以外の物事を知っているとは見られない。
 私が気にかけるべき、重要な案件について、私に覚悟を与え、私にその案件の全てを任せているのである。
 確かに、誰しもが、自分の認識のすべて、関わる出来事の全て以外の領域を知ることはなく、それでいて、さして重要でない物事を、気にかけているのである―彼は、私が気にすべき物事を知っているので、それについてのみ、私に教え、対処するように促すのである。
 私が自身の生死をかけて貫こうとする物事もまた、私の本心からすれば、大した課題ではないのであり、ただ、私の本心を知る者のみが、真に重要な物事を私に思い出させるのである。

「神」との対面

2020年06月23日 20時20分49秒 | 日記
 例えば、「人間は神の似姿である」と、創世記に述べてあるので、人間どうしがお互いに相手を「神」だと思えば、それは真実という事になる。
 上記の場合、論理的には、創世記の文言が前提となっているので、自分も「神」である、という自覚は不可欠である。
 自分は「神」であるという自覚を持ちながら、相手を「神」だと思うことにより、その認識の双方は、真実という事になるのであるー創世記を前提として生きるのならば・・・。
 そして、相互に自他を認め合う場合においては、波動の種類という物が介在する余地はなく、波動が無いという事は、時刻と場所、時間と空間という概念は、1切の役割を放棄している事になるーなぜなら、波動とは振動数と波長、すなわち、速度という属性を持ち、速度とは、時間と空間の概念によって成り立つ物であるからだ。
 時空の無い境地、時空は存在しないという前提においてのみ、自分と他人の双方が「神」である、という命題は真となるのである。