1秒の間に幾日をも過ごすことが、「主観的経時性」に於いては、可能である―この事は、概念の時空跳梁を成す大脳が「無限に」生き続けることが出来る、という事を意味している―ほんの1瞬の生体(生ける肉体)が在れば、その認識をその大脳で行なう本人は、無限に生きられる。
客観的な無限、すなわち、皆で共有する経時性が辿る時間の果ての無さは、神の目にその全てが望まれる「永遠」の1部に組み込まれているが、時間が幾らでもあるという事と、「永遠」の全体をふかんする事とは、おそらく、全く意味が異なるのであろう・・・と、言うのは、どれほど縦横無尽に線路をはりめぐらせたところで、列車に乗っている間に、季節はめぐるし、線路の無いところを訪れることもできないからである。
引き返そうと努力している間に、駅の周りは様変わりしているであろう・・・。
しかし、人体を、自己の恣意的な認識によって作成することの出来る人は、物質を支配しているのであり、人体の作成ができるのは、「永遠」をふかんできる者のみである。
人体に限らず、物理現象を、意のままに作り出すことの出来る人は、全体に配慮できるはずである。
人体の作成は、物理現象の1に過ぎない。
この事は、「永遠」をふかん出来ている事と同義である。
1つの現象の作成は、「永遠」全体を刷新することになり、「永遠」を支配する者でなければ、そのような達成には至らない。
1つの現象(創造)は、全ての未来及び全ての過去と密接につながっており、1つの現象(創造)を全体から独立させることは出来ない―その故に、いかなる物の創造者であっても、「永遠」を「知る」必要があり、知らざるを得ず、作らざるを得ないのである。
「知る」とは、認識する事であり、認識とは、消極から積極に至る創造なのである。
受動的な認識は、消極的な創造、と言うことが出来る。
客観的な無限、すなわち、皆で共有する経時性が辿る時間の果ての無さは、神の目にその全てが望まれる「永遠」の1部に組み込まれているが、時間が幾らでもあるという事と、「永遠」の全体をふかんする事とは、おそらく、全く意味が異なるのであろう・・・と、言うのは、どれほど縦横無尽に線路をはりめぐらせたところで、列車に乗っている間に、季節はめぐるし、線路の無いところを訪れることもできないからである。
引き返そうと努力している間に、駅の周りは様変わりしているであろう・・・。
しかし、人体を、自己の恣意的な認識によって作成することの出来る人は、物質を支配しているのであり、人体の作成ができるのは、「永遠」をふかんできる者のみである。
人体に限らず、物理現象を、意のままに作り出すことの出来る人は、全体に配慮できるはずである。
人体の作成は、物理現象の1に過ぎない。
この事は、「永遠」をふかん出来ている事と同義である。
1つの現象の作成は、「永遠」全体を刷新することになり、「永遠」を支配する者でなければ、そのような達成には至らない。
1つの現象(創造)は、全ての未来及び全ての過去と密接につながっており、1つの現象(創造)を全体から独立させることは出来ない―その故に、いかなる物の創造者であっても、「永遠」を「知る」必要があり、知らざるを得ず、作らざるを得ないのである。
「知る」とは、認識する事であり、認識とは、消極から積極に至る創造なのである。
受動的な認識は、消極的な創造、と言うことが出来る。