日々の気付き

自分への提言

メメントモリ

2021年03月19日 09時20分43秒 | 日記
 「死は天国につながる」という思想には、充分な説明がなされていないのであり、その説明があって、初めて、「死」と天国との関係性が明らかになるのです。
 その理解のないままに「死」を迎えたとしても、大した意味は、それ(死)にはないでしょう。
 「天の国はこの地上に広がっている」という意味は、人間は生きたまま「天国」の状態に至ることが出来る、ということです。
 しかし、経時上に「天国」が在りつづけるのではなく、必要なのは肉体の「現在」という1瞬のみであり、肉体の存続に関しては、神が万物を必要として、それらを配置しているその1端を、自身の肉体が担い続けるに過ぎないのです―したがって、「天国」の状態に至ること(在ること)と肉体の存続とは、無関係である、と言えるでしょう。
 たとえ肉体が火あぶりに遭おうと、そんな事はどうでも良い事なのです。
 いずれ肉体はその機能を停止し、(場合によっては焼かれて)土に還ることになるからです。
 ペテロは火あぶりに遭う前に微笑んでいた、と言われていますが、「死=天国」という図式は幻想なのであって、火あぶり自体は、他の全ての現象に勝る物ではありません―彼は(ペテロは)、肉体の「現在」における、概念の時空跳梁という「天国」の境地を理解し得たのでしょうか?
 彼は、勇気をもって、ローマに帰還(トンボ返り)しました―あらゆる不安を退け、世間にあふれる熱情を突いて、冷静なる伝道へと戻った・・・。
 皆に希望を与えることに、彼は成功したのでしょうか?―彼がはりつけに遭うのを見て、涙しなかった人の中には、もしかしたら、概念の時空跳梁の秘密(万象を支配する境地=神の座)を知っていた者もあったのかもしれません。
 ところで、死を受け入れる、ということは、死への闇雲な恐怖から解放される、ということを意味するのですが―そのような心理状態は、必ず、概念の時空跳梁を発生させる・・・。
 問題となるのは、時空跳梁(超時空創造)の質という事になります。
 「道端の石から、アブラハムの子供を作り出せる」程の深い理解を持つ人は、神の理解を、神と共有しているのであり、それこそが、「死」の直前、もしくは、生ける肉体に於ける、完全如意(時空全体を支配する)の境地と言えます。
 その境地に達せず「死」を受け入れる場合、概念の時空跳梁をなす「現在」の肉体(=大脳)は、現象界に対する認識・創造・守護・憑依・アドバイス・人への援助を通じての、本人の活躍とともに、進化してゆく事になります。
 本人が完全なる如意性を体得した時、概念の時空跳梁の起点としての肉体の「現在」は、完全に守られることになります。
 「死」を受け入れるのが悟りなのであって、「死」に対して身構えるのは、真逆の行為と言うことが出来ます―非常に大事なことが在るとすれば、それは、人間の心理面に於けるリラクゼーションなのであり、実際には、それ以上の何物も、人間には必要ないのです。

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