日々の気付き

自分への提言

万事完全

2018年07月30日 12時31分48秒 | 日記
 あらゆる現象にそれなりの理由を見い出す人は、いかなる醜悪や不完全をも見いだすことはない。
 今まで不完全だと思っていたものに対し、その物の成立の理由を発見することによって、それが実は、正当であり、それなりの意義を持つのである、という事が、感じられるようになる。
 そのような境地に個人がなる時、その人にとっては、世間の中に、自他の行為・思考をも含めて、いかなる不備・不足・不完全・未熟をも見いだす(感じる)事はできなくなる。
 そうなると、これまで差別・排除・忌避しようとしていた物に正当性が見いだされることになる。

地獄の不在

2018年07月27日 18時38分34秒 | 日記
 次のようなことを聖職者の多くが気付いているのではないかと、私は考える。
 すなわち、「悪魔」、「地獄」という概念は、他人(信者)をコントロールするために創作・採用された方便の一種ではないのか、と・・・。
 上記の事は、ジョージ・アダムスキーの著書の中で、太陽系会議での議論の内容として、述べられている。
 私は、(初期キリスト教ではなく)原始キリスト教においては、「永遠の火の刑罰」といったことは語られていなかったのではないのか、と考える。
 また、教義を固守させるため、異論を唱える者を信者に無視させるために、「悪魔の讒言」という概念が導入されたのだ、と考える。
 この「完璧な」方法によって、信者の哲学的な理解の増進や、自然に対する興味、創造主の探究といったことが、巧みに妨害され続けている。

 しかし、宗教的にしろ、経済的にしろ、暴力的にしろ、支配被支配の関係というものは、個人的には速やかに、社会全体としてはゆっくりと、解消してゆくことになる。
 カトリックが成立してからの時間を短いとみるか長いとみるかは別にして、いずれ、個人に対する脅迫的な規制は居場所を失う。
 永遠の学びの道は個人に用意されているのだと、アダムスキーは述べている。
 この学びの道は、他の何者によっても妨げられることはない。
 「失敗」は個人によって制御できる範囲にしか存在せず、それをただ見守ることが、まことの教育である。