日々の気付き

自分への提言

大自然の意思

2021年02月24日 17時46分58秒 | 日記
 人の行為を、その人の抱える罪悪感・世間の風評などに基づいて、批判し、問責し、脅迫する人があるが、この様な行為は、自身の社会的地位を保障するための危機管理の1種なのであり、いずれ、(それらの批判は、)無用の長物として、本人の心の内部で、忘れられる運命にある。
 私たちはただ、自然の意向に沿って日々行動すれば、それで良いのである。
 ところで、私たちの多くは、企業などの集団の1員として、あるいは、個人として、日々、競い、戦い、奪い合っているのであり、その様な中で、自然の意思を妨げないようにすることは、困難を極める。
 批判その物は、大自然から出るのではなく、人の危機管理から出るのであり、その衝動は、太古の先祖から受け継いだ、私たちの個性の1部でもある―この「正当な継承物」を、何とか修正しないと、絶滅は免れない。
 いかなる行為・判断にも、何らかの正当性が有るのであり、その故に、「愚かさ」は本人の意思に依らなければ、無くすことはできないのである―なにびとも、他人を悪く言う権限は無い。
 しかし、絶滅を目前にして、どうしても、無視され得ない性質―「利己主義」という名の自己保存の意欲は、各個人の内部で封印されねばならない―「何が何でも、他人や他物を犠牲にしてでも、生き残らねばならない」という性質は、常に鎮静化させられねばならないのである・・・私たちは、私たちの肉体の歴史に終止符を打たざるを得ない状況下にある。
 今や、私たちの正当な歴史は、生存の目的の為に、ゆがめられ、放棄される必要があり、この様な状況からは、脱却できないであろう。

「現在」と絶対座標

2021年02月16日 19時04分02秒 | 日記
 私たちが「現在」居る場所は、宇宙全体のどこに位置するのでしょうか?
 地球は自転しながら、公転しているのですが、太陽自体が自転し、公転している、という証拠はありません―太陽と恒星が、私たちにとっての絶対座標ということになるのでしょうか?
 確かに、空間が不変の物である、という前提を採用するなら、太陽と恒星は、海に浮かぶ標識と言えるでしょう・・・しかし、私たちは時間を旅しているのです―時間をも含めた絶対座標は有り得るでしょうか?
 ビッグバンが時の始まりであるなら、4次元の絶対座標を想定することは可能です。
 ところで、4次元の中心とは1体何を意味するのでしょう?
 宇宙の中心は、空間の出所であると言えるでしょう。
 絶対座標をたどれば、「永遠」時空の中のあらゆる「点」を探索することが出来、さらには、その点を中心として、宇宙全体に干渉することが出来るでしょう―もし、絶対座標があるなら、それを認識することによって、何らかの自由を、私たちは新たに獲得できるでしょう。
 私たちが自身の抱える概念を時空跳梁させ、過去や未来を恣意的に改変する為には、まず、絶対座標の存在に気づく必要があります―それは、太陽と恒星との関係から始まります。
 太陽と恒星の関係性から、私たちは、時空を支配する意思の下へ到達することが出来ます。
 

「前生」と肉体との関係

2021年02月15日 11時25分36秒 | 日記
 私たちが前生と呼ぶ物は、別の時空(肉体の「現在」に比した過去や未来)に在る誰かの肉体における、認識(イマジニングによる創造)の時空跳梁に過ぎない―それは「憑依」と言い換えることが出来る。
 したがって、前生の自分と真の自分(肉体由来の意思)との2人が、大脳を利用して、創造活動を行なっている―2人の自分が、1方は、異なる時空から、他方は、肉体の「現在」から、同じ1つの大脳を利用しているのである。
 ところで、創造活動とは、受動的から恣意的に至る「あらゆる認識」であり、大脳内でのイメージの作成に他ならない。
 異なる時空の意思は、ある時刻と場所における1瞬(多くの場合、肉体の「死」の直前)から、「現在」に干渉している。
 時として、異なる時空の意思は、憑依する肉体における創造活動を通じて、人類を支配しようとする事がある。
 しかし、異なる時空の意思の中には、新たにオリジナルの肉体を作成し、憑依というプロセスを経ずして、肉体を利用する者もある。
 別時空の意思が利用する新規のオリジナルの肉体については、成人または胎児のいずれかとなる。
 胎児に憑依できる「別時空の意思」は存在せず、専ら、新生児や幼児に憑依するのである―憑依する意思は、いずれ、支配への野心を封印し、個人の理解を促進する「助言者」へと転身する運命にある―それは、「別時空の意思」の成長とも言える。
 あらゆる支配への意欲は、喪失という幻想的な概念を含む思考によるリスクマネジメントに基づくので、「喪失」が幻想である、という理解が、支配欲からの脱却をもたらすのである。

公益とは何か

2021年02月08日 15時26分44秒 | 日記
 現在の私には、何の苦しさも無いが、世間の常識に照らして、将来の「苦役」が心配となるーと言うのも、多額の借金を抱えて、しかも、何の職業にもついていないからである。
 しかし、自身の未来の幸不幸を論ずるより、いかにすれば皆と幸せに暮らせるか? ということが重要になってくる。
 それは、自分や特定の個人の幸福だけを目指せばよい、という考えを超えて、「もともと、何が幸せであるのか?」という観点に立った上で、個人にとっての真の幸せなら、それは、万人の幸福につながる、という宇宙普遍の「常識」に立ち戻る、という事である。
 どんな職業にも、喜びはある、ということには、間違いはないが、「今、万人のために自身が何を成せるのか」によって、職業を選択する必要はある。
 自身の生活の保障に偏った選択は、結局のところ、「全てを失う」という結果に至る事になる―持っていると思われる物まで取り上げられる訳で
ある。
 私は自身の現況に関して、いかなる「心配」もする必要は無いし、むしろ、それ(心配)をやってはならないのである―それは、利己主義に自身を向かわせることになる。
 もし、私に苦境があるとすれば、それは私に適した「運命」であり神慮と言える―私自身が「神」として、その様に仕向けたのである。
 しかし、私たちには本来個人的な苦しみなどというものは存在しないのであり、皆で苦しみ、皆で喜ぶ、という暮らし以外は、幻想にすぎない。
 世に苦しみがまん延するなら、その原因者は私であり、その様に私が願ったのである―この世の虚偽と騒乱を作ったのは、少なくとも、その1端を担ったのは、私自身なのである。
 人間の心には、自身を傷つけることが出来るほどの「危機管理」が潜んでいるのであり、リスクマネジメントへの意欲は、ストレスによって、死に至るほどの強大さを持っているのである。
 死に至るリスクマネジメントとは、その正体とは1体何であるのか?
 私たちは、集団の1員として、他の集団と闘う事があるが、その「集団魂」が、個人をストレスによって追い詰めている、という実情がある。
 集団とは、企業であり、血族であり、集落であり、生物種である。
 私たちはいかなる集団をも、守る必要は無いのであって、ただ、協力して、皆に貢献すれば良いだけである―「皆」とは、宇宙であり、万物である。
 いずれ、企業、血族、国家、生物種は、その利己性を失い、解散させられる事になる―弱肉強食の頂点にあるライオンでさえ、自らを自然に捧げ、土に帰って行く―いかなる「死」も、不幸ではない。
 「心配しない」ということは、自然人としての、人間の義務であり、逆に、心配こそが、自身を含めた他人の全てを「不幸」にするのである。
 あらゆる心配の背後には、「喪失」ゼロという幻想的な概念が潜んでいるのであり、ゼロこそが人の暮らしに不如意・不都合を呼び込む元凶と言える。
 この世にはゼロに該当する実態は存在しない―したがって、あらゆる「破壊」「排除」「忌避」は、その様な認識は、ただ、本人に不測の事態をもたらすのみである。


神としての大自然

2021年02月05日 19時22分22秒 | 日記
 私たちの恣意性が反映されない、大自然のありのままの姿は、私たちがこの世に登場する以前の神と万物の関係を表している。
 私たちの希望や心配が反映される「認識」は、元の自然の姿を、私たち自身から隠す役割を果たす。
 私たちは、立ち木と人工樹脂とを分別出来ないほど「極端に恣意的な」認識の連続の中にある。
 私たちは、貪欲であり心配性なのであって、その心理状態に則した「事実」に埋没しているのである。
 ところで、私たちが希望や心配を忘れた時に眼前に広がる世界は、神と万物の関係を映し出すので、自身が「神」となって、万物を創造し指令を与えることになる―その時、私たちは「道端の石からアブラハムの子供を作り出す」ことも可能となり、その実体を運命づけることも可能となるのである。