日々の気付き

自分への提言

慣れちゃっていいの?

2014年06月30日 07時39分49秒 | 日記
 不快感のレベルが、比較的高まったものを、私たちは、「痛み」と呼びます。
 生命活動の維持に不都合な状態が起きた時、その様な状態から脱するように、肉体が要求します。
 それが、不快感・痛みです。
 私の経験上、心に不安がある時の方が、不快感や痛みが大きくなるように思えます。
 心に何の不安もない人は、不快感の程度も、小さいはずだと思います。
 一方、人間には、驚くような潜在能力があるといわれていまして、これを利用すれば、予知・透視・念力などが起こるそうです。
 生身のままのテレポーテーションの話も、読んだことがあります。
 この、人間の潜在能力を利用すれば、本来不快であるようなことも、何でもなくなるでしょう。
 しかし、不快感というものは、肉体(自然)からのメッセージですから、やみくもに無視してもいいとばかりは、言えないのではないでしょうか?
 不快感をなくすことに成功したときには、その不快感の理由を心に留めておくことも必要でしょう。
 のど元過ぎれば・・・とよく言われます。
 不快感には、なんらかの正当性があるはずです。

新しい見方

2014年06月28日 09時10分25秒 | 日記
 私の心を支配する可能性のある、3種の、ものの見方が、あります。
 第1は、世間の人々と共有している、伝統的な、古くからの、ものの見方。
 これには、ときとして、自分や他人を責める、破壊的・非建設的な考えが含まれます。
 第2は、自分の心の中には、決して無かったけれども、自分の心が落ち込むような、ものの見方。
 これは、自分を無駄に恐れさせ、結果的に、緊張・病気をもたらします。
 第3は、自分の心の中には無かったという点では、第2と同様ですが、自分の心が元気づけられ、心配やストレスが全て消えるような、ものの見方。
 これは、あらゆる現象を、矛盾なく説明できますので、全知全能のように見えます。(心がスッキリするはず。)
 以上の3つの中で、唯一、的を射て正しいのは、第3の、ものの見方です。
 不安や心配を増幅する、ものの見方は、偏った、せまい、したがって、いつまでも正解をもたらさない、ものの見方です。

私とは違う

2014年06月25日 15時42分30秒 | 日記

 私は、他人が自分と違う考えを持っている事に、気づくことがある。
 違うという事だけは分かるが、相手が何を考えているのか分からない。
 相手が自分の立場を説明しても、私がそれを理解するには、何年もかかるだろう。
 自分の考えと、他人の考えが異なるにしても、どちらかが正しい、どちらかを選ばねばならないという事は、必ずしも無い。
 相手が正しい場合もあるし、自分が正しい場合もある。
 両方間違っている場合もある。
 自分が進歩すれば、正しいことの内容も変わる。
 安易な妥協は、問題の先送りにしかならないが、場合によっては、それも止むを得ない。

私が他人に望んでもよいこと

2014年06月24日 17時19分11秒 | 日記
 私が、他人に対して、望んでもよい、唯一の事は、その人が大自然に調子を合わせて、暮らしてくれることである。
 しかも、その人が、大自然に調子を合わせて生きていないように見えるときのみである。
 それ以外の、「ああしてほしい」などといった、具体的な事を望んではならない。
 それは、単なる、私のわがままにすぎないであろう。