日々の気付き

自分への提言

大脳が心

2020年01月27日 20時50分09秒 | 日記
 人間の存在意義にとって、目や耳などの感覚器官は不要である、と言うのは、確かに正しいでしょう―何故なら、視覚・聴覚に障害があっても、その事とその人の人格とは全く関係が無いからです。
 しかし、大脳感覚野に障害が生じた場合、特にそのイマジニング能力(想像力)に支障が出るような場合、その機能が回復するまで、本人は「人間的な」活動は1切行なえないでしょう。
 人間の成すべき事は、その人がどのような歴史・経験を持ち、どのような環境に在ろうとも、大脳内での想像による「創造」である、という事です。
 大脳内における創造は、必ず、個人の個性に応じた物となります。
 個性とは、その人独自の願望、すなわち、太古の微生物から無数の先祖を通じて蓄積された遺伝子から出る要求に他なりません。
 人間を含めたいかなる個体・物体においても、その個性は決して損なわれる事は無いでしょう―その「個体」が自身の触感に(あるいは物体の場合「意識」に)対して、関心を持ち続けるなら・・・人間以外の万物と生き物がそうしているように・・・。

思考の適正化

2020年01月25日 16時23分31秒 | 日記
 私たちが心に思い描く事を、過去や未来の現象にする為には、時空の全てを含めた宇宙全体にその行為(現象の作成)の影響が波及して行かなければなりません―「永遠」全体が刷新されないなら、私たちは、何も作る事は出来ません。
 既に私たちは、認識という行為において、受動的にではありますが、あらゆる現象を生み出しています―と言うのも、私たちが何かを「認める」時、私たちは、自分の持つ先入観や既成概念を対象物に当てはめ、対象物にある程度の運命づけを行なっているからです。
 私たちが、その大脳内で、自身の抱える概念を「別時空」に着地させなければ、私たちは、いかなる「認識」「知覚」も得られません。
 逆に言えば、思考とは、各個体の個性であり、時空を超えない様な考えは、全く意味を持たないので、時空を超えて何かを生み出していない物体は存在しません―私たちが何かを目撃するなら、私たちは驚いたり、失望したり、喜んだりしますが、他方では、眼前に在る物を、眼前にある様に、時空を超えて生み出してもいるのです。
 もし、私たちが何かの出来事に対して不平を言うなら、私たちは自分自身を責める必要があります―何故なら、自分たちが知覚する物事の全ては、自分でそれを生み出しているからです。
 私たちが自ら不平を言わない様にするには、私たちがその出来事に変わる何かを生み出す必要があります―それは「現実化し得るアイデア」と呼んで良いでしょう。
 現象という物は常に、それを私たちが生み出そうとする時、必ず、得体の知れない何者かによって、規制を受け、思い通りにならない事が多い・・・。
 規制する側の人が、何者であり、どこに居るのかは別にして、とりあえず、私たちは、その規制(ルール)について学んでおかなければ、世の中に「思い通り」を生み出す事は出来ません。
 しかし、上記のルールが、六法全書の何百倍もの情報量であるなら、私たちは1生をかけても、自分の作りたい物を作る事は出来ません。
 したがって、それ(ルール)を知る者から逐1の指導を受ける必要があります―その様にして初めて、現実化し得るアイデアが完成するのです。
 アイデア作成の過程で、「彼」は次のように言うかもしれません―「あなたの言う〇〇について、私は知らない、そんな物は存在しない」
 つまり、私たちは、実際には存在しない幻想的な概念を抱えている可能性があります―彼の心の中には、「破壊」「排除」「喪失」という概念は無いのではないでしょうか?―何故なら、自然界を眺める時に、私たちが発見するのは、1瞬の間隙もなく、あらゆる出来事がお互いに補い合っている姿だからです。
 私たちの「喪失」という見方(概念)は、極めて狭い視野の下で作られる、「見えなくなったから無くなった」という稚拙な物です。
 

生みだす事、生じる事

2020年01月25日 15時18分12秒 | 日記
 私たちは、「木を伐(き)る」事は出来ません―何故なら、「伐る」という概念は「神」の心、すなわち、私たちの真の願望の中に存在しないからです。
 私たちはチェーンソーを起動させる事が出来、それを木の幹にあてがう事は出来ますが、それによって生じる「倒木」という成果は、私たちが作り出したイメージによるのではありません。
 しかし、「積み上げられた丸太」という思念(思考)によって、いかなる過程をも経ずして、それを達成する事は出来ます―そこには、チェーンソーも作業者も介在させる必要は無いのです。
 生み出されるあらゆる成果は、「神」の意思の干渉なしには、生じません。
 現代において、現象群に、私たちの意思が含まれる事は、ほとんど無いと言って良いでしょう―結果的に、「意に沿う」現象があるとしても・・・。
 私たちが自身の真の願いを見出し、それに沿って思考する事が出来るなら、その内容の全ては、時空を超え、過去や未来の現象となるでしょう―その時、私たちは自身の意思を現象化させている事になり、それによって知識を得、認識を得る事になります。
 すでに私たちは、受動的な目撃によって、上記の創造を成しているのですが、自身が作らない物までをも、自分由来であると勘違いしている事が多い・・・。
 張り付けになったイエスは、ユダヤ人がその「悪行」を成したかもしれませんが、イエスを「殺す」事は―つまり「殺人」という現象を作成する事は、何人にもかなわないでしょう―何故なら「死」「殺す」という概念は、「神」の心の中には無いからです。
 「永遠」の中に無いのです。

臨死脳ニライカナイ

2020年01月21日 16時08分49秒 | 日記
 臨死を経験した人は、肉体の「現在」という1瞬が、個人の主観的経時性に「無限」の時間を与え、人類皆で共有する経時性においての「永遠」のあらゆる時刻と場所に、個人を運ぶ事に気づきます。
 臨死体験者は、「死んでいた」のではなく、肉体を利用して「永遠」を旅し、その事によって、各時刻・各場所に対して、何らかの積極的、または、受動的な干渉を成したのです。
 上記の体験が、「生還」の後に「あの世」として認識されたのです。
 私たちは、その肉体の各1「現在」において、「永遠」に接し、干渉する旅に出る事は可能ですので「臨死」の状態は必要ありません。
 私たちは、ただ、自身の肉体の「触感」に関心を持ち、何らかの願望を抱えて居れば、それで良いのです―それにより「印象」が来る事になります。
 利己主義の危機管理は、結果への執着を生じます―「忌避すべき現象」を避けるための「手当て」が危機管理ですので、本人は「手当て」に特化した創造しか行なわなくなるからです。
 危機管理に偏重した心理においては、それ以外では、何が起きても良いので、公害や戦争、殺人が、副次的に生じる事になります。
 上記の様な偏った世界観は「真に長期的な幸福の創造」への意欲を、個人から奪うので、なるべく、如何なる事にも心配しない方が得策と言えます。
 あらゆる危機管理は、創造の見地からすれば「老婆心」にすぎません。
 しかし、人の心理がどの様な物であれ、本人が肉体を維持し、感覚を働かせている間は、その感覚を通じて何かを「作って」いる事は間違いなく、あらゆる私たちの感覚によって生じる「創造性」の各1は、「永遠」の隅々に至るまで影響を及ぼし、「新しい永遠」を発生させてはいるのです。

原子炉の即時休止を

2020年01月21日 08時56分53秒 | 日記
 私たち人類には、原発を稼働させる自由が与えられていますが、他方では、原発を停止し、廃炉の作業を開始する自由も与えられています。
 原子炉を稼働させる人々からすれば、それは、収入源であると同時に、地球の温暖化を抑止する活動である、という言い分があります。
 全原発の廃炉を求める人の言い分は、おそらく次の様な物でしょう。
 すなわち、災害やその他の不測の事態によって、炉心溶融が発生した時には、地球のボディーの損傷を止める事が出来ず、1人の立つ瀬も無くなる可能性があるし、そうならない場合でも、放射性廃棄物の蓄積は、未来の人類の被曝(ひばく)を想定しなくてはならない、という事です。
 稼働の継続と廃炉作業の開始のいずれにしても、その事を1人の「自由」に押し込める事は不可能です―「今」特段の支障がないから、それを続ける、という考えは、やはり、軽率な物であり、この事は、蓄積された核兵器が、その使用の有無に依らず、未来の人類の健康をおびやかす原因とならざるを得ない、という事にも通じます。