ジーン・ウールの不思議な旅

ジーン・ウールは不思議な女性です。姿を変えて過去にも未来にも現れます。
もしかしたら貴方の友人や奥様かも知れません。

店主ご挨拶

ようこそお越し下さいました。 昨年(2010)、3ヶ月の雲水修行に行ってまいりました。 私は働き者で(自己申告)、精舎は朝は早く夜は遅く「朝瞑想」の時間は、気がつくといつも寝ておりましたが・・。 私の人生の1ページに、思いがけないご褒美を頂けたような日々を過ごさせて頂きました。・・ま、主婦でも決心ひとつで如何様な道も開けるんですね。 今も精舎に行くと「実家に帰った」ような気がします。 このブログ管理人は、最近物忘れ症候群中につき、おいで頂いた感謝を申し上げ、コメントを頂いても書いたり書かなかったり、付き合いが悪いことのご無礼をお許し下さいませ。

エルトゥールル号の遭難 -命の光からー  再掲載

2012-04-17 21:14:43 | 本の話・素敵な話
 
2011-08-17 22:25:41 | 掲載の再掲載

「TKCビジネスワンポイントニュース」「TKC商工ニュース」 
2002-11月 「付録資料」より                                  

ーー語り継ぐべき歴史ーー                               

エルトゥールル号の遭難 -命の光からー 

 和歌山県の南端に大島がある。その東には灯台がある。明治3年(1970年)にできた樫野崎灯台。今も断崖の上に立っている。

 びゅわーんびゅわ-ん、猛烈な風が灯台を打つ。どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。

台風が大島を襲った。明治23年9月16日夜のことである。

午後9時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海の方から音がした。灯台守(通信技手)ははっきりとその爆発音を聞いた。

「何か大変なことが起きなければよいが」 灯台守は胸騒ぎがした。しかし、風と岩に打ちつける波の音以外は、もう何も聞こえなかった。

 このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台の方へ押し流されてきた。全長76メートルもある船。
しかし、まるで板切れのように、風と波の力でどんどん近づいてくる。
あぶない! 灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には、岩がにょきにょき出ている。

 ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。

船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに水が入り、大爆発が起きた。
この爆発音を灯台守が聞いたのだった。
乗務員は海に放り出され、波にさらわれた。また、ある者は自ら脱出した。真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。
一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。意識を失い、岩場に打上げられた。

 「息子よ、起きなさい」 懐かしい母が耳元で囁いているようだった。
 「お母さん」という自分の声で意識が戻った。

真っ暗な中で、灯台の光が見えた。
 「あそこへ行けば、人がいるに違いない」

そう思うと、急に力が沸いてきた。40メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。

 灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然だった。顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守はこの人が海で遭難したことはすぐわかった。

 「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。

 「あなたの国はどこですか」
 
 「…………」

言葉が通じなかった。それで、「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人であることと、船はトルコ軍艦であることを知った。また、振りで、多くの乗務員が海に投げ出されたことがわかった。

 「この乗務員達を救うには人手がいる」
傷ついた水兵に応急手当をしながら、灯台守はそう考えた。
 「樫野の人たちに知らせよう」

灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆け出した。電灯もない真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。

灯台に戻ると、10人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけだった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。

 この当時、樫野には50軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。村の男たちは泣いた。

遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。

 「一人でも多く救ってあげたい」

しかし、大多数は動かなかった。一人の男が叫ぶ。

 「息があるぞ」

だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。
村の男たちは、自分たちも裸になって、乗務員を抱き起こした。
自分たちの体温で彼らを温めはじめた。

 「死ぬな!」 「元気を出せ!」 「生きるんだ!」

村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗務員の意識がもどった。
船に乗っていた600人余り。そして、助かったのは69名。
この船の名はエルトゥールル号である。

助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。
当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。
井戸もなく、水は雨水を利用した。サツマイモやみかんがとれた。
漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。ただ、各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。

 このような村落に、69名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、生まれてはじめてみる外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。

 「もう食べさせてあげるものがない」 「どうしよう」

 一人の婦人がいう。 「にわとりが残っている」

 「でもこれを食べてしまったら……」
 「お天とうさまが、守ってくださるよ」

女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせた。

 こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁寧に葬った。

このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして、明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。

このことは、日本中に大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。

 次のような後日物語がある。

イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。
イラクのサダム・フセィンが
「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」
と無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。
日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。
その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。

 そこに、2機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。
日本人216名を乗せて、成田に向けて飛び立った。
タイムリミットの1時間15分前であった。

 なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。

前・駐日大使、ネジアテイ・ウトカン氏は次のように語られた。

「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

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 エルトゥールル号の話は112年前の真実で、17年前のイラン・イラク戦争の時には、多くの日本人がトルコの人によって救われました。

決して、多くの人には知られていない歴史の真実です。


「我、日本のマルコ・ポーロとならん」自転車で単独走破した14480Km

2012-04-17 21:14:43 | 本の話・素敵な話

「我、日本のマルコ・ポーロとならん」
自転車で単独走破したシルクロード 影山淳著 読んでいます。

東京新聞出版です。
以下はたぶん東京新聞の紹介文。

マルコ・ポーロの『東方見聞録』を愛読する筆者は、55歳を過ぎてからマルコの辿った道を自転車で走破することを決意。サラリーマンのかたわら夏休みを利用して、2003年から8年を費やしてトルコから中国・北京まで、延べ240日、14,480kmを踏査した。

 地中海沿岸からイラン、紛争で混乱するアフガン、パミール高原、西域の砂漠、敦煌、そしてフビライ・ハーンの大都へ。

 自転車の旅だからこそ発見した、知られざるシルクロードの自然と人々の生活を報告する。

「目標を持って頑張れば、仕事も生活も生き生きとする」と仕事に邁進する筆者は、若き日に、マナスル峰8156mに登頂。還暦を過ぎても世界を舞台にビジネスで駆けめぐる。

 若きサラリーマンから熟年世代まで、戦う男たちに勇気を贈る応援歌となっている。


1章 日本のマルコ・ポーロ、いざ出陣!
2章 灼熱のイラン高原横断
3章 ペルシャ湾からアフガニスタン国境へ
4章 厳戒態勢のアフガニスタンに潜入
5章 アフガン入国を拒まれ、パミール高原の横断へ
6章 カラコルム・ハイウェイ
7章 西域南道・タクラマカン砂漠
8章 北京めざして河西回廊を走る


【著者紹介】

影山 淳(かげやま・じゅん)

1947年、静岡県掛川市生まれ。1972年に自動車でローマ~カトマンズ1万5千kmを走破。76年マナスル(8156m)に登頂。製茶機器メーカー寺田製作所(静岡県島田市)に勤務。長年中国などアジア各国、ロシアなどを営業で回る。現在、製茶機械輸出会社を経営。名古屋山岳会会員。掛川市在住。



  
今私は第1章を読んでいます。


スタートは、地中海に面したトルコ・アダナ市のライアス港。
今やっと1章の終わり頃だけど、いたる所でトルコの人達から彼は親切にされている。
読んでいる私もその度に「有り難いなぁ・・」「嬉しいなぁ・・」って思う。

・・それで今夜は

「エルトゥールル号の遭難」 の話を思い出したのでした。

さっき探し出して再アップしちゃいました。

またゆっくり

我、日本のマルコ・ポーロとならん  紹介しますね~~★


おっと 彼のHPです。

ようこそ、影山淳のホームページへ
http://www4.tokai.or.jp/junkage/index.htm


今、2003年 トルコ~イラン TURKEY-IRAN (第1章・・この辺りを読んでいる)
http://www4.tokai.or.jp/junkage/marco/marco2003/2003top.htm


絵心のある方で、水彩画が素敵です。

  

「ロシア人しか知らない本当のロシア」の著者 井本沙織さんって??

2012-04-12 11:47:54 | 本の話・素敵な話


「ロシア人しか知らない本当のロシア」を書いた 井本沙織さん って ロシア人 ??
って探してみました。


  
菅野沙織(井本沙織)
プロフィール


1991年(ソ連が崩壊する直前)に中央大学の研究員として来日1994年商学修士、1998年経済学博士の学位を授与1998-2005年中央大学で日本人学生向けの特殊講義「外国人から見た日本の経済と金融(比較制度論)」等を担当。また、桜美林大学で、留学生向けの”The Japanese Economy”の授業を現在も担当

日本経済の研究の他、「比較制度論」の枠組みの中で、ロシア経済を研究、論文を発表。2005年11月より内閣府経済社会総合研究所でロシア経済を研究2006年6月大和総研入社2010年アジア事業開発部 現在に至る


[2005.03] 「ロシアのコーポレート・ガバナンス-取締役会の構造および機能」
[2006.05] 「ロシアの構造改革」



『通貨危機の政治経済学』、第4章「ロシア通貨危機」
(日本経済評論社、2000年12月)
『ロシア人しか知らない本当のロシア(日経プレミアシリーズ)(新書)』
(日本経済新聞出版社、2008年)




すごいね。
ロシア人でした。

  

「奇跡の船」と呼ばれた初代南極観測船『宗谷』

2011-10-23 22:15:13 | 本の話・素敵な話

「奇跡の船」と呼ばれた初代南極観測船『宗谷』
  http://www.geocities.jp/pneuma_jp/Souya.html

 南極観測船「宗谷」が第1次観測隊を乗せて、南極まで2万キロの航海に旅立ったのは昭和31年11月8日、今からちょうど50年前のことである。当時はまだ敗戦の影響が残っていて、国全体が貧しかった時代。それだけに南極計画を復興の糸口にしたいという国民の期待は大きく、現在のオリンピックやサッカー・ワールドカップの選手団以上の期待を背負っての旅立ちであった。大群衆に見送られ、港中の船がいっせいに汽笛を鳴らして門出を祝福したと言われる。

 この、大変重大な使命を帯びた宗谷という船、このために建造された船では無い。それどころか、この時すでに建造18年の老朽船だった。普通、船の寿命は20年ほどだと言われるのだから、引退間近のボロ船を、地球上で最も危険な海域への航海に使用したのである。仕方がない、国に費用が無かったのだから。

 宗谷の実物をごらんになった方ならお分かりだと思うが、宗谷は小さな船である。その小さな、しかも耐用年数ぎりぎりの、そんな船を精一杯改装して南極へ向かったのである。専門家の中には、南極までたどり着くのは無理だとの意見を述べる者もあった。普通に考えれば当然の判断であったろう。砕氷船で最も大切な能力は運動性能。それを支える宗谷の出力は4,800馬力。同時代アメリカの砕氷艦バートンアイランド号は13,000馬力、大人と子供ほどの差がある。その、非力な老朽船で「接岸不可能」と言われた難所~昭和基地のあるプリンスハラルド海岸まで行こうというのだから、到達不可能と言われるのも当然である。

 しかし、宗谷は無事に南極へたどり着き、不可能を可能にした。これが、宗谷が「奇跡の船」と呼ばれる所以である。宗谷にはその数奇な運命とともに、不思議な「運」が付いていると言われる。それはこの、南極への航海だけではない。その歴史を、追ってみたいと思う。



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 宗谷を建造したのは、長崎県の香焼島にあった川南工業という造船所。ここ、元々は松尾造船所という工場だったのが12年もの間閉鎖されたままになっていたのを、川南工業が買い取ったもの。この経緯にもドラマがある。

 昭和11年3月、この閉鎖されたままになっている工場のことを聞きつけて視察に来た川南工業社長、川南豊作の前にボロボロの守衛服を着た老人が立ちはだかり「入っちゃいかん、ここは松尾さんの工場だ!」と叫ぶ。実はこの老人、かつてこの造船所の守衛長をしていた人物で、工場が閉鎖されてからも恩義ある社長のために、手弁当で警備をしていたというのである。この話に感動した川南豊作は直ちにこの造船所を買い取ることを決め、この老人を再び守衛長に採用する。しかしこの老人は、自らの役目が終ったと感じたのか、間もなく病に倒れて死去。川南社長は社葬をもって弔ったという。

 宗谷は、再開したこの造船所で3番目の受注。発注元はソ連で、砕氷能力40センチという耐氷型貨物船として建造され、船名もロシア語で「ボロチャエベツ」となっていた。

 しかしこのころ日中戦争が長期化の様相を見せはじめ、国家総動員法の発令などにより、結局この船はソ連に引き渡されず、民間船会社の貨物船「地領丸」として、その船歴をスタートさせることになる。

 やがて、中国やロシア周辺で貨物輸送に従事していたこの船の、耐氷能力に目をつけたのが日本海軍。特務艦としての使用を目的に、昭和14年、海軍に買い上げられることになる。このとき船名も「宗谷」に変更。

 形ばかりの武装を施された宗谷は、それから海軍の艦船として働くことになるのであるが、昭和16年12月8日、大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発。それからは敵艦に狙われる怖れのある南方の前線基地へと、食料や物資を運ぶ危険な任務に着くことになるのである。

 このころから宗谷の不思議な「運」が見えてくる。周りの艦船が大きな被害を受けているのに、なぜか宗谷だけは損害が軽微。昭和18年にはアメリカ潜水艦から魚雷を撃ち込まれるが、なんとこれが不発。ただちに爆雷を投下して、あべこべに潜水艦を沈めてしまうのである。

 その後もこの「幸運」は宗谷に味方し、危険な任務にも「宗谷だけは無事」ということが続いて行く。一説には、宗谷は砕氷船なので船脚が遅いのに、輪郭がずんぐりとしているため立てる波が大きくなる。それで敵の方が速度を読み誤って狙いが狂うのではないか~と。

 こうして戦争を生き延びた宗谷は、終戦後間もなく、戦地や大陸からの帰還者を運ぶ引き揚げ船として働くことになる。甲板上に急ごしらえのトイレや洗面所を増設して、南方から中国、インドシナと休む間もなく駆け巡り、19,000名もの引き揚げ者を日本に送り届けたのである。

 もう十分すぎるほど働いた宗谷は廃船間近。その後は小樽に係船されていたのだが、昭和24年、まだ「使用可能」と判断されて改装工事を施され、海上保安庁の灯台補給船となる。全国の灯台を巡り、物資を届けて回るのだ。ちなみに灯台守を描いた映画「喜びも哀しみも幾年月」には、この頃の宗谷が登場するそうだ。

 この仕事が5年半ほど続いた後の昭和30年、「国際地球観測年」での南極計画に日本も参加することになり、南極観測船として宗谷が候補に上るのである。

 この南極観測船の候補には、同じく砕氷能力がある鉄道連絡船「宗谷丸」も候補に上げられたが、選ばれたのは「宗谷」。この候補の船がどちらも「宗谷」が船名に付いていたのは面白い偶然だと思う。

 しかしこの老朽船を、南極の厳しい条件に耐えうるように改造するのは大変なこと、しかも短期間に完了しなければならない。この設計図面は船舶設計協会が製作。この協会は、戦艦大和を設計した牧野茂など、かつて高い技術力を誇った日本海軍の技師の集まりで、極めて短期間に膨大な量の図面製作を見事にこなしている。

 改造工事を引き受けたのは横浜の浅野ドック。昭和31年3月12日の着工以来、昼夜兼行で7ヶ月に及ぶ作業の後、10月10日に引き渡されて東京に回航されるのだが、実はこの時まだ作業は終っておらず、作業員達は横浜から台船に乗って宗谷まで通い、ついに作業を完成させる。この場面、NHKの「プロジェクトX・宗谷発進」では、まだ横浜にあるうちに港中の作業員達が手弁当で駆けつけた事になっているが、それは感動を盛り上げるための演出。しかし作業員達が宗谷の使命を理解して、精一杯働いたことに違いはない。

 そしていよいよ前述のように11月8日、宗谷は旅立つのであるが、なにしろ「到達不可能」と言われたほどの危険な航海。乗組員の中には、家族と水杯の別れをしてきた者もいたという。しかし、だからと言って嫌々乗り組んだわけではないだろう。日本が世界に向けて新たな一歩を踏み出す、その一翼を担うために進んで引き受けたのに違いない。

 船にはビルジキールという、横揺れ防止のためのヒレが付けられているものだが、宗谷は氷に乗り上げて氷を割っていくので邪魔であろうと、これを外してしまった。だから、大変に揺れる船となった。ケープタウン沖の「暴風圏」に入ったときには最大62度まで傾いたという。私はこの「南極第1次観測」のエピソードを講談にまとめたご縁で、宗谷の舵をとっていた三田氏とお会いしたのだが、侍のような気骨を感じさせる人物だった。乗員たちの命と日本国民の期待を背負うのは、今の感覚なら大変なプレッシャーとなるのだろうが、三田氏は特攻隊の生き残り、ただ任務を成功させることのみを考えて舵を握っていたのではないか。

 そして1月24日、宗谷は南極へと到達。宗谷の強運はついに奇跡を起こしたと言えるのかもしれない。しかし運だけでこれほどの難事業を達成できるだろうか。この南極行きを成功させたのは、未知の世界への危険な航海をものともせず、なんとしても観測隊員を送り届けようと命懸けで臨んだ、松本船長以下77名の乗組員達の努力の賜物でもあったろう。

 宗谷はこの後、さらに改装を施されながら第6次観測までを南極観測船として働き、観測船としての役目を終了。それからは北海道第一管区所属の巡視船として、海難救助や冬期の北洋における医療活動に従事。救助船125隻、救助人数は1,000名にも及び「北の海の守り神」と呼ばれるほどの活躍をする。そして、ようやく引退したのは昭和53年、実に40年あまりも働き続けたことになる。これほど働き者の船は、おそらく前例が無いのではないか。

 このように、この「宗谷」という船の歴史は、そのまま昭和史の光と影、様々な部分で重なり合うように思える。宗谷にかかわった人々は皆この船を愛している、「健気な船だ」と言う。大昔の船乗りは「船霊様」~船の魂を信じていたそうだが、宗谷には特に、人を引きつける何物かがあるのかもしれない。

 宗谷は現在、お台場にある「船の科学館」に展示されている。しかし今では船底の痛みが激しく、大修理しなければ沈んでしまうかもしれないそうだ。無理もない、建造されて68年にもなる。この船は歴史の生き証人のような船である。このまま朽ち果てさせるにはあまりにも惜しい。なんとしても保存してもらいたいとは思うが、まだ資金が十分では無いとのこと。一般の人々の協力と、また保存活動を盛り上げるため、船の科学館では「宗谷保存の募金」を行っている。宗谷という船に興味を持たれた方はぜひ、以下のH.P.をご覧いただきますよう。

「宗谷保存募金」



「南極大陸」第2回目先ほど 放映されました。

今日も 感動!

南極大陸に行く船は、どの国も砕氷船なのかしら・・と単純な疑問でネットを検索したら、このサイトに行き着きました。

何が気に入らないのか・・すぐに接続不可能になってしまうのは、何か良からぬ訳があるのか否か分かりませんが・・とりあえず申告いたします。

ドラマのなかで、この宗谷は「縁起の良い船」なのです。
反対に「縁起の悪い船」というのがあって、あの戦艦大和は縁起の悪い船なのだそうです。
大和は、たった1回の攻撃で沈んでしまったようですね。
大和は、攻撃を主な目的として建造されたので、守りには弱かったのだと設計をされた牧野さんが、ドラマのなかで言っておられました。

今日は中部正心館で「プレアデスの運命を輪を回す祈り」下賜一周年記念感謝式典があり、行ってまいりました。

こちらも 感動! でしたよ。

では また 明日~☆

だけれども僕はやる 中田厚仁さん  ねずきちブログより

2011-10-03 11:35:24 | 本の話・素敵な話



ねずきちのひとりごと ブログより

◆ だけれども僕はやる 中田厚仁さん ◆

中田厚仁(なかたあつひと)さんのことを書こうと思います。
昭和43年1月生まれですから、生きていれば今年43歳になられます。

中田さんは、平成5年4月8日に、カンボジアで選挙監視員として活動中に、何者かから至近距離で2発撃たれました。

銃弾は、一発が左側頭後部から左目にかけて貫通し、彼は「I am dying.(私は死んでいきます)」という言葉を最期に、25歳の若い命を散らせました。

(ありし日の中田厚仁さん)
http://blog-imgs-43-origin.fc2.com/n/e/z/nezu621/20110108152855012.jpg


当時のカンボジアは、20年もの長きにわたって内戦が続き、全土に1千万発もの主として中国製の地雷が埋められていたのです。

当時の日本の宇野宗佑外務大臣の努力で、カンボジアの停戦に関する国際会議が日本で開かれ、カンボジアに停戦と和平、そして国民の意思を尊重した総選挙が実施されることになったのが、平成2(1990)年のことです。

日本で、他国の戦闘行為をめぐる国際会議が開催されたのは、実は、これが戦後初のことです。
これは日本が、世界で初めて国際社会から独立国として承認されたことを意味し、その功績によって宇野宗佑氏は、内閣総理大臣に就任します。

ところが、指3本事件というわけのわからない下ネタで、彼は世間の笑いものにされ、わずか2週間で総理の職を辞してしまう。
なぜなら、カンボジアの平和に世界でもっとも大きな功績を持つ宇野氏は、そのカンボジアの内紛に乗じて粗悪品の地雷を売って金儲けをしている中共政府からみたら、大敵だったからです。


地雷というのは、実は、とてつもなく原始的かつ人類史上、もっとも低劣で劣悪な人道上許せない最低最悪の武器です。

どういうことかというと、地雷は、人を殺すだけの威力がないのです。
殺さずに、腕や足を吹っ飛ばす。

こうかくと、すごく残酷なようだけど、一撃で死んでくれた方が、残された者にとっても、本人にとっても楽なのです。
現実論として、葬式と埋葬をするだけで済む。

けれど、大けがをされると、怪我をした本人が痛い思いをするだけでなく、彼を助けるために、周りの多くの人々に負担がかかり、さらに彼が生きている間中、周囲が面倒を見続けなければならない。
怪我をした本人も、その先、つらすぎる人生が待っています。

実際上、敵の国力や戦力を削ぎ、疲弊させるには、ある意味、地雷はものすごく都合がよいのかもしれない。
けれど、これほどアコギな武器・兵器も珍しいです。

考えてみてください。
兄弟が怪我をして片足を失ったという状態と、兄弟が銃で撃たれて死んだ場合と。
もちろん情の面からは、たとえ片輪になっても生きていてくれた方がうれしいけれど、現実は、ただでさえ貧しい食うや食わずの生活の中で、さらに被介護者を抱えることになる。
これは、たいへんな負担でもあるのです。

そういう非人道的な武器を、日本の悪口を言い続けているどこぞの国は、カンボジアに1000万発も売りまくり、カンボジアの国中に埋めた。

そのカンボジアに、ようやく日本の宇野宗佑さんの努力で、平成4(1992)年に国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)ができ、20年続いた内戦に終止符が打たれ、停戦合意が成立し、総選挙を実施する事になったのです。

人々が、中国産の撃てば暴発して、撃った本人が大けがをするという中国製の機関銃やら地雷を使って、武力で国家を統一するのではなく、民主的な公正な選挙によって、平和な国家を取り戻そうということになったのです。

選挙を実現するためには、ひとつには、地雷の撤去をしなければならない。
そのために、戦後初めて、自衛隊が海外派兵されることになりました。

日本中に降り注いだ焼夷弾の不発弾処理で、日本の自衛隊は目下のところ世界で最も優れた爆弾処理技術を持っていたからです。

当時、日本の左翼は「平和憲法を守れ!自衛隊の海外派兵を許すな!」と盛んにデモや宣伝をしていましたが、日ごろ人命重視、人の命は地球よりも重いなどと言っている反日左翼が、カンボジアの人々の苦しみや生命の危険に関しては、何の関心も払わない、払おうとすらしないというのは、「人類」という視点から見ても、実に変な話です。

同時に日本は、国連のボランティア機構を通じて、日本国内からも志願者を募り、カンボジア国内で、これからカンボジアで行われようとする公正な「選挙」について、それがどういうもので、いつ、どこで行われるものなのかを、あくまで中立の立場で説いて回るスタッフを派遣しました。

その中の一人が、中田厚仁さんだったわけです。

中田さんは、大阪の出身で、大阪大学法学部に入り、国際法を専攻し、卒業後、カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が平成4年に募集を開始した国際連合ボランティア(UNV)に採用されています。

彼は、7月にカンボジアへ渡ると、最も危険なコンポトム州の巡回要員に、自ら志願しています。

当時のカンボジアには、まだ政府はないのです。
戦っている内乱グループは、細かな派閥に分かれていて、武装解除に応じないグループもまだ数多くあった。

なかでもコンポトム州というのは、地雷の埋蔵量、武装ゲリラ数とも、最低最悪の状況にある州だった。

でも、カンボジアの人々の平和を心から願う中田さんは、懸命に村々を回ります。

道すらないのです。
だから、川にぶつかればフェリーを使い、フェリーが行けなくなるとカヌーを使い、カヌーが使えないところでは、泥水のような濁った川を泳いで村々を回った。
2時間以上も泳いで、ようやくたどり着いた村もあったそうです。

そこで彼は、選挙の必要性などについて、必死に、真剣に説いて回りました。

平成5(1993)年4月8日のことです。

中田さんのもとに、国連ボランティアの人たちの安全を守るための会議に出席するようにとの連絡がはいります。
彼は、会議出席のために、車で移動を開始した。

そのとき、中田さんの乗った車は、中国共産党の影響を受けた「ポルポト派」の兵士に囲まれます。
中田さんは、後頭部に銃を突きつけられ、左後頭部から左目にかけて、ズドンと貫通傷を負わされた。

瀕死の重傷の中で、中田さんがボランティアの本部に向けて無線で伝えらた最後の言葉が、「I'm dying.(死んでいきます)」でした。

中田厚仁さんが亡くなった翌月の5月23日、カンボジアで総選挙が行われました。

カンボジア全体で、この選挙の投票率は、90%でした。
すごい数字です。大成功です。

中田厚仁さんが担当していた、最も危険だった地域の投票率はどの位だったでしょうか。

99.99%です。
考えられないような高率です。

開票作業をしていた投票箱の中から、いくつも手紙が出てきたそうです。
投票用紙に混じった手紙です。

ほんとうは、投票箱には投票用紙以外のものを入れることは、禁止されているのです。
だから人々は、選挙の立会人に見つからないように苦心して、手紙を入れた。

その一枚、一枚のすべての手紙も、中田さんの死を悼み、彼の温かい人柄を慕い、彼の誠実な活動に感謝の気持ちを述べ、中田さんの日本にいるご家族に感謝の思いを伝える内容の手紙だったそうです。

中田さんが殺害された場所は、事件当時は、無人の地でした。
総選挙が終わり、カンボジアが新たな一歩を踏み出したとき、付近の村々から、たくさんの人が、この地に集まってきます。

彼らは、平成7(1995)年、そこに新しい村を作ります。
村の名前は、公式名は「ナカタアツヒト・コミューン」です。
村人達は、親しみを込めて「アツ村」と呼んでいます。

その村で、村人たちが作詞作曲した村歌です。

~~~~~~~~~~~
題名【アツヒト村の歴史】

♪新たに発展したアツヒトの村
 地方にある田舎の村である
 森の中に生まれた新しい村
 みんなの手によって作られた

♪93年の出来事を思い出せ
 地域一帯は地雷でおおわれていた
 旅人はとても恐れた
 そこには山賊もひそんでいた

♪4月8日のこと
 おば おじ 祖母 祖父はある事件のことを聞いた
 道の途中でいつも恐怖におびえていた
 銃撃(じゅうげき)の音を耳にして

♪その時アツヒトは殺された
 痛々しく苦しんでいた
 学校の前にあるクロラッニュの記の近くで
 その事件は歴史に刻まれた

♪彼は死んだが 
 彼の名前は生き続けている
 石碑に刻まれている
 学校の中庭にその石碑が置かれている
 クメール人に語り続けている

♪新しいコンクリートの家が作られた
 種々の樹木を植える
 カンボジアの発展のために
 それが彼の願いである

♪クメール人よ 記憶にとどめよ
 これは心の平和である
 彼に学び 従えよ
 わたしたちの幸福は彼の力によるのだ

~~~~~~~~~~~

信じることのために、命を捧げてでも行動する。
それが日本人という生き方、なのではないでしょうか。

亡くなられた中田さんは、次の言葉を残されています。

~~~~~~~~~~
だけれども僕はやる。
この世の中に、
誰かがやらなければならない事があるとき、
僕は、
その誰かになりたい。
~~~~~~~~~~


中田さんの冥福を心からお祈りいたします。


 v(^∀^*)ノ*:。。.:*ヽ(*^∀^)ノ*:

<編集 配信> 『日本の心を伝える会』
ホームページ http://www.nippon-kokoro.com/

<代表者ブログ>ねずきちの ひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/




数年前ですが、カンボジアに行って来ました。
ポルポトの時代に・・ この葉っぱで 時間をかけて 首を 切ったのです・・と

ガイドさんが教えてくれました。


時々 あるじゃないですか 固くて ギザギザした葉っぱ・・
尖っていて 危ないから 先っぽを 切っておく あの葉っぱ

カンボジアには 暗黒の時代が ありました

その時代に 中田厚仁さんが かの地で 亡くなった のですね。

その尊い志は バトンは 私達が 継いでいきたいですね。


通化事件に学ぶ国を失うことの過酷 ねずきちのひとりごとブログより  

2011-09-27 14:18:43 | 本の話・素敵な話
   
通化事件に学ぶ国を失うことの過酷
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1129.html

ねずきちのひとりごとブログより
2011/1/4

新年早々、いさささきつすぎる話となるかもしれないけれど、仕事初めとなる今日、気持を引き締める意味で、通化事件について書いてみようと思います。
なにがなんでも日本を守らなきゃなんないからです。

広島の平和公園には「過ちは繰り返しません」という文字があります。
「繰り返してはならない過ち」というのは、どういうことを言うのか、以下の文で、是非、お考えいただければと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~


通化事件(つうかじけん)というのは、終戦の翌年である昭和21(1946)年2月3日に、かつての満州国通化省通化市で、日本人に対して一週間にわたって拷問と銃殺が行われ、あるいは凍死させられ、軍とは何のかかわりもない民間人二千人(一説によると数千人)が殺害された事件です。

加害者は、支那共産党軍と朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊)、被害者は日本人です。

通化市というのは、いまの北朝鮮と支那の国境付近にあった市です。

終戦時の通化は、中華民国(蒋介石・国民党)政府の統治下に置かれ、満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支部書記長に就任し、満州国軍や満州国警察が転籍した中華民国政府軍によって治安が維持されていたのです。

治安が維持されていたから、満洲の奥地から日本に帰国しようとする多くの在留邦人や引き上げのために集まった日本人、17000名が滞在していました。

男は、満洲にソ連が侵攻した際の戦いに出自し、辺境で命を落としたり、シベリアに連行されたりしています。
命がけで、女子供や老人を逃し、そのために命を犠牲にして戦った。

ですから当時の通化にいたのは、男たちが戦って時間をかせいでいる間に、必死に逃げさせた女性や子供、老人たちだったのです。

しかし、彼女たちや老人たちは、無事に逃げおおせたわけではありませんでした。

落ちる途中で、支那人や朝鮮人たちによって、ようやく持ち出した手回り品やわずかばかりの財産全部を奪われ、暴行を受け、強姦に遭い、厳寒の地で衣類さえも奪われ、麻袋に穴を空けたものをわずかに身に着けただけの姿で、ようやく一定の治安が保たれている通化にたどり着いたのです。

通化では、在留邦人がそうした日本人避難民に衣服や住居を提供するなどしていたのだけれど、その通化市居留の日本人ですら、家屋や家財を強制的に接取されるなどしていました。

そこに昭和20(1945)年8月24日、ソ連軍の将校20人、兵士200人が進駐し、市内の竜泉ホテルに司令部を設置します。

この連中も悪かった。
日本人居留民の家屋に押し入り、財物や衣類を奪い、奪うモノがなくなると、日本人女性や少女を強姦し、抵抗する男性や老人は平気で暴力をふるい、殺害しました。

武装解除されたとはいえ、通化市にあった日本軍憲兵隊は、ただ手をこまねいていたわけではありませんでした。

原憲兵准尉は、ソビエト兵が白昼の路上で日本女性を裸にして強姦していた現場に駆け付け、女性を救おうと制止してもソ連兵行為を止めないため、やむなく軍刀でその強姦兵を一刀のもとに斬り捨てました。しかしその場で原准尉は、別のソビエト兵に射殺されている。

そしてこの事件以降、日本人は、憲兵といわず民間人といわず、日本刀も没収の対象となっています。

完全に丸腰となり、身を守る術を持たなくなった日本人遺留民に対し、ソ連の軍司令部は、公然と日本人女性を慰安婦として供出せよと命じてきました。

ご存知の通り、朝鮮半島における従軍慰安婦などというのは、まったくのデタラメな捏造でしかありません。
朝鮮人の女衒たちが、同国人の女性をさらって独身男性が大量にいる日本軍兵舎横で売春宿を開いていただけの話です。
売春が合法だった時代です。

日本兵はちゃんと金を払って彼女たちを買っていました。
ですから、日本兵の給料が将校クラスで25円、兵隊クラスで15円が相場だった時代に、彼女たち売春婦は、2年もすると3~5万円の貯金ができたのです。
当時のお金で3~5万円というのは、いまの貨幣価値にしたら3~5億円の大金です。ですから一家のうちの女の子が日本人相手の売春婦になるというと、当時の朝鮮人は、一族をあげて大喜びした。

しかも日本は、彼女たちによって性病がまん延するのを防ぐために、公費を使って彼女たちの健康診断までしています。
ついでにいうと、当時荒稼ぎできた成功体験から、韓国ではいまでも売春がさかんです。
韓国で床屋に行くと、マッサージ嬢というのが出てくる。売春婦です。床屋でさえ、それが「サービス」になっている。
要するに彼らにとって、売春は成功体験になっている。

世界の常識は日本の常識とは異なります。

戦いに勝てば、負けた側の財産や女を略奪し放題にする。それが兵士たちの稼ぎになるというのが当時の世界の常識です。

白ロシアという地名があります。これはベラ・ルーシュの訳です。ベラというのは処女の意です。つまり白ロシアというのは、処女のロシア(ルーシュ)という意味の地名です。

なぜそういう地名になったかというと、かつてモンゴルが攻めてきたとき、湿地帯である白ロシア地方は、馬での交通が不便だったために、その地を避けて通った。そのため、そこの地は強姦被害に遭わなかったから、ベラ(処女)ロシア、と呼ばれるようになったのです。

負けた側に対しては、何をしても許される、それが当時の世界の常識でもあったわけです。

だから日本が朝鮮半島を侵略し、朝鮮人女性をセックス・スレイブ(性奴隷)にしたといわれると、多くの大陸系の人たちは、ウン、なるほど、と簡単に信じてしまう。
なぜなら、それが彼らの常識だからです。
しかし、それは彼らの常識であって、日本の常識ではない。

しかし、もし日本人がそういう非道を行う人種だったら、台湾でも、南洋諸島でも、東南アジアでも、かつての大日本帝国の版図になっていた地域には、必ず性奴隷がいて、現地人と日本人の混血孤児が大量に生まれていたはずです。
けれど、そういう話は、まったくない。
なぜか。日本人は、そのような非道をしなかったからです。

話が脱線しました。
ソ連の通化市への進駐軍は、日本人から武器を奪い取るだけでなく、女性の供出を求め、さらに日本人が外部の情報を得ることがないように、ラジオを全部没収します。

さらに支那共産党軍は、ソ連進駐軍の下請けとして日本軍の脱走兵狩りを行い、男性600人を検挙し吉林へ連行してしまいます。

つまり、通化市を、日本人の女子供と老人ばかりにした。

ソ連軍が撤退すると、通化の支配を委譲された支那共産党軍は、通化市の市役所の幹部職員全員を連行し、旧満州人の役人全員を殺害します。つまり日本人社会の行政機能を奪った。

さらに清算運動と称して、旧満州人たち通化市民の家宅に片端から侵入し、民族を問わず金品を掠奪します。

そして昭和21(1946)年9月22日には、支那共産党軍が、公式な連合国軍であった中華民国政府軍に攻撃を仕掛けて、通化市から駆逐してしまいます。

10月23日になると、支那共産党軍の一個師団が新たに通化市に進駐してきます。

11月2日には、支那共産党軍劉東元司令が着任します。

そして同日付けで、支那共産党軍は、17000名を超える日本人遺留民に対して、収容能力5000名以下しかない旧関東軍司令部へ「全員、移動せよ」と命令します。

移動した日本人遺留民に対し、支那共産党軍は、即日「遼東日本人民解放連盟通化支部(日解連)」の設立を命じました。

日解連は、日本人に対する中国共産党軍の命令下達や、日本人への共産主義教育を担当する支那共産党の下請け組織です。

このことは大事なポイントなのですが、およそ民族支配をしようとする者たちは、必ず民族の分断工作をします。

欧米列強が東南アジア諸国を支配するに際して、最貧層だった少数民族の華僑を利用したり、日本を占領したGHQが、在日朝鮮人を利用して武器を与え朝鮮進駐軍を名乗らせたのも、そうした分断工作のうちです。

満洲の通化でも、日本人遺留民の分断工作のために、支那の共産主義を受け入れる者にある種の特権を与え、同民族同士での分断工作が行われました。

それが日解連だったわけです。

日解連は、日本人のスパイとなり、支那共産兵に、どこぞの日本人宅には、これこれの財産がまだ隠されている、誰々の家には、美人の娘さんがいるなどの情報を与えた。

しかし、恐怖に縛られ、この手のいわゆる裏切り(分断工作)に応じた人たちも、結局は被支配者であり、しょせんは奴隷にすぎない。

日解連は、支那共産党軍の指示に従い、日本人遺留民の財産を全て没収しようとします。
これに対し、日本人遺留民たちは、正々堂々、最低限の衣類や食糧の確保の嘆願を続けます。

すると支那共産党は、没収を見合わせる条件として、日本人全員が共産主義者になることへの誓約を要求します。

そして11月17日には、支那共産党に応じない元満鉄総裁の大村卓一を、満鉄総裁であったことを罪状として逮捕、投獄した。

この間も、支那共産党の兵士たちは、武器捜索を名目に、日本人の家屋に押し入っては、略奪・暴行・強姦を、連日続けています。


12月23日、日解連の通化日本人遺留民大会が、通化劇場で開催されます。

劇場には、中国共産党万歳、日本天皇制打倒、民族解放戦線統一などのスローガンがおどっています。

大会には、劉東元司令を始めとする支那共産党の幹部が列席し、日解連幹部らも檀上に勢ぞろいした。そこに日本人遺留民3000人が出席します。

議長は、日解連幹部で元満州国官吏の井手俊太郎が務めます。

彼は、「自由に思うことを話して、日本人同士のわだかまりを解いてもらいたい」と、冒頭に発言した。

日解連幹部たちは、自分たちのこれまでのやり方の手ぬるさの謝罪が行われ、「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰です」などと、連日乱暴狼藉を働く支那共産党に媚びた発言がなされます。

しかし発言を求められた日本人遺留民たちは、その席で、日解連を堂々と非難したのです。
そして明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」などの発言を、次々に繰り広げます。

そして山口嘉一郎老人が、
「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案しました。

会場に、満座の拍手が沸き起こります。

議長が苦い顔で、賛意を示す者に起立を求めました。
会場のほぼ全員が起立した。

そして高らかに、宮城遙拝と天皇陛下万歳三唱が行われます。

万歳のあと、山口老人は、

「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育され来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれません。ですから徐々に教育をお願いしたい」と述べます。きわめて常識的な発言です。

大会は、日本人有志の正々堂々とした発言で会場を取り仕切られました。
しかし、その日の翌日以降、大会で発言した者は、全員、支那共産党によって連行され、殺害されてしまいました。


大会から1週間が経過し、年が明けた昭和21(1946)年1月1日、支那共産党の工作員であった内海薫が、殺害されます。犯人はわかりません。

1月10日、支那共産党は、日解連幹部の高級官吏や日本人遺留民の指導者ら140名を、内海薫を殺害した容疑であるとして連行します。
そして全員を抑留した上で、日解連も強制的に解散させてしまった。

1月21日、支那共産党は、日本人4名を市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑します。
日本人たちが見ている前で、彼らは遺体を何度も撃ち、銃剣で突き刺し、ハチの巣にしたうえで、切り刻みます。

日本人遺留民たちの怒りは、徐々に高まっていきます。

そして昭和21(1946)年2月3日、通化事件は起こります。

この通化事件の情況については、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦の末、やっとの思いでどうにか無事祖国にたどり着くことができた外科医婦人中郷三己枝さん(当時27歳)の手記がありますので、まるごとご紹介します。

出典は、高崎弥生氏の著書「実録、遥かなる回想」です。

~~~~~~~~~~~

中国八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかねた旧日本軍の一部と、在留邦人の中の抗議派の人々が、国府軍と手を組んで、ついに立ち上がった。

その中心人物は藤田大佐で、かつて戦車隊長として雷名をとどろかせた猛将として有名だった。
昨年6月、通化にやってき今利中将ひきいる第百二十五師団の参謀長だった。

この人たちが、どのような手段で決起したのか知る由もなかったが、総勢、約千名が、2月3日の未明を期して一斉に蜂起した。

それは暴動のようなものではなく、それぞれ攻撃目標を定めた組織的な反乱だった。

しかし、たのみの国民党軍は呼応しなかったし、同時に立ち上がる予定の航空隊は、八路軍(支那共産党軍)の先制攻撃を受けて参加できず、それ以上悪いことに、反乱軍の動きは、八路軍のスパイによって探知されていたため、奇襲攻撃はことごとく失敗に終わった。

部分的に要所を占領した部隊もあったが、それも数時間で壊滅してしまい、敵弾にたおれ、傷ついて捕虜になった者も多く、壮絶な戦死を遂げた者もすくなくなかった。

この反乱は、わずか数時間の後に完全に鎮圧されてしまった。

血に彩られた旧正月の朝は明けた。
おびただしい死体が各所に散乱していた。

この事件は八路軍に大きな衝撃を与え、日本人に対する怒りは頂点に達した。
これは日本人弾圧の絶好の口実となった。

やがて恐ろしい報復が行われ始めた。
元旦を祝って家族がささやかな朝食についたとき、八路軍の兵士が侵入し、夫たちを引き立てて行った。

通化市内では、16歳以上60歳までの日本人男子は、ことごとく八路軍兵舎その他に集合せよと眼入れされた。市内は恐怖のるつぼと化した。

八路軍側は、抗戦派だけでなく、すべての日本人に対して、仮借なく復讐しようとしたのである。
この反乱にまったく無関係の者も、反乱に反対だった者も、ほとんど差別されなかった。

とくに兵舎の前に集合させられた数百名の日本人は、身震いしておののいていた。
そこにひとりの将校があらわれて、絶叫するように叫んだ。

「今朝、日本人を主とした反乱軍のために、わが軍は多大の犠牲を受けた。諸君は同胞として、その罪を免れることはできない。わが軍は報復として、ただちに諸君を銃殺に処する」

その瞬間、兵舎の窓から十数台の機関銃が一斉に火を噴いた。みるみるうちに、ばたばたと倒れた。

重傷を負って死にきれない者に対しては、容赦なくピストルが撃ち込まれた。

死体は待機していたトラックに次々と積み込まれ、一部は渾江の橋の上から凍結した川面に投げ捨てられ、一部は近くの谷間に投げ込まれた。

逮捕拘引された日本人は、およそ三千人に及び、元憲兵隊の監獄や、公署の防空壕の中に分散監禁された。

~~~~~~~~~~

監禁された日本人は、狭い部屋に何十人も押し込まれ、身動きすらできない中で大小便垂れ流しのまま5日間もの間立ったままにされた。

苦しさのあまり「出してくれ」と叫んだ者があると、銃弾が撃ち込まれてくる。
発狂する者もあれば、中には立ったまま死んだ者もあった。

しばらくして取り調べがはじまると、ひとりひとり引き出され、反乱軍との関係の有無を詰問される。
そのとき態度が悪かったり、言葉に詰まったりすると、こん棒や革のムチで容赦なく、力いっぱい打ちのめされた。

その場で悲鳴をあげて倒れる者、全身を殴りつけられて意識を失い、ついに動けなくなった者も少なくなかった。

そうすると、そのまま戸外に放り出されてしまう。
酷寒二月のことである。たちまち寒気のために不動のまま凍死してしまった。

やがて材木のようにトラックに積まれ、谷間に投げ込まれる。

するとどこからともなく貧民が集まってきて、硬直した死体から着衣をはぎとってゆく。
全裸の死体は、荷物のように運ばれて、渾江の橋の上から投げ込まれる。
これが毎日のように行われた。

なんという地獄絵図だろうか。

一週間目ごろから、ぽつぽつ釈放者が出るようになったが、帰って来た人も、無傷な人はいなかった。
手を折られた人、足を折られた人、杖にすがってやっと家にたどり着いた人。
帰ってからも発熱のために苦しむ者。凍傷のため、廃疾者同然になった者などが大部分で、五体満足で帰って来た人はわずかであった。

(同上)
~~~~~~~~~~~

抑留中は精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害されました。

殺害された者はそのまま立ったままでいるか、他の抑留者の足元で踏み台とされました。
また、数百人が凍傷に罹り不具者となりました。

拘束から5日後、部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちにこん棒で殴りつけられ、多くが、その場で撲殺されました。

撲殺を免れたものの多くは、骨折した手足をぶらぶらさせていました。

その後、支那共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した川の上に引き出されて虐殺が行われました。

女性にも多数の処刑がされました。

渾江川の上には、服をはぎ取られた女性の裸の遺体が転がっていました。

男たちが拘束されている間、支那共産党軍の兵士たちは、日本人住居に押し入り、家族の前で女性を強姦することもあり、凌辱された女性の中には自殺するものもありました。

事件後、3月10日になると、市内の百貨店で支那共産党軍主催の二・三事件の展示会が開かれました。

戦利品の中央に、蜂起直前に拘束された孫耕暁通化国民党書記長と、2月5日に拘束された藤田実彦大佐が見せしめとして3日間に渡り立たせられました。

3月15日に藤田大佐が獄死すると、遺体は市内の広場で3週間さらされました。

渾江(鴨緑江の支流)では、夏になっても中州のよどみに日本人の虐殺死体が何体も浮かんでいました。

この年の末、国民党政府軍が通化市を奪還します。
国民党は、事件犠牲者の慰霊祭を行ないました。

しかし翌年には、再び通化市は、支那共産党軍が占領しています。


通化事件というのは、大東亜戦争がすでに終結したあと、日本に帰国するために比較的治安のよかった通化市で起こった事件です。

日本に帰国しようとする避難民に対し、支那共産党は略奪強姦の限りを尽くし、我慢の限界を超えた日本人が、武器も持たずに一斉蜂起(2月3日)すると、彼らはこれを鎮圧しました。

そして蜂起とは何の関係もなかった日本人を含め、3千人とも4千人ともつかない日本人を、零下30度の極寒の中で、両手を上げさせて銃剣で追い立て、一部を殺害し、一部を監禁。

監禁された日本人は、せまい部屋に120人ごとに押し込め、さながら満員電車のような身動きできない空間で、酸欠で口をパクパクしている人達を、窓からライフルで撃って殺した。

5日間にわたって、大小便垂れ流し状態で死体とともに立ったまま部屋で監禁されていた日本人たちは、ようやく息も絶え絶えに部屋から出されると、こんどは朝鮮人たちが、こん棒で好き放題に殴りつけました。ある者は殺害され、生き残った者も手足をぶらぶらさせていました。

一週間にわたる拷問と銃殺、あるいは凍死によって、一般の民間人二千人(一説によると数千人)近くが殺された、この通化事件は、支那が捏造している南京事件と異なり、完全な事実です。

しかも、ときは戦時中ではなく、戦争が終わった後、それも武器を持たない一般市民に対して行われた暴虐です。

ちなみにこの事件の際、支那共産党に媚を売り、日本人の密告や財産の強奪の手引きをしていた日本人の共産党工作員がいました。

彼ら工作員は、日本人避難民が乞食同然の生活苦でいたときに、立派な服を着て街を闊歩し、罪のない日本人を売って得意になっていました。

しかし通化事件のとき、その日本人共産党員も、他の日本人と同様、殺され、監禁され、手足の骨を折られています。

悪に魂を売って、一時的な利益を得ても、結局は悪によって滅ぼされる。

いま、日本を売り、個人の利得を得ようとしている日本の政治家も、いずれ彼らの思惑通りに日本に外国人参政権が誕生した際には、真っ先に、裏切り者として糾弾され、財産を没収され、殺される運命にある。

世の中とは、そういうものだと思います。


通化事件は、たいへんな死傷者を出した大事件です。
記録にもあるように、この事件では、日本人が二千人(一説によると数千人)も殺され、その死体は、夏になっても渾江川に浮かんだ。

大規模な殺害があれば、そういう証拠がいつまでも残るものです。

まして支那や反日主義者が主張するように、南京で日本人が30万人も虐殺を行ったとするならば、その記録や証拠が、いくつも残らなければおかしい。
しかし、そんな証拠はまったくないし、証拠として出されているものも、それが捏造である事実がことごとく暴かれています。

戦後の反日左翼主義者、反日思想家たちは、この通化事件について、日本軍が乱暴狼藉を働いたために、その騒動に一般の日本人民間人が巻き込まれ、たいへんな被害に遭ったと説明しているようです。

しかし、上に述べたとおり、日本人の旧軍人たちが蜂起したのは事実ではあるけれど、彼らは武器すら携帯していなかった。軍刀すら没収されて持っていなかったのです。

そして事件までの半年間、財産を奪われ、家屋に押し入られ、女性たちを強姦され、あるいは殺され、暴行を受け、無理やり共産主義万歳と唱えさせられ、もうどうにもならないところまで追い込まれて、彼ら軍人は、蜂起した。

それに対する支那共産党の報復は、蜂起した軍人の逮捕ではなく、一般人の虐殺だった。

事件が起こったのは、昭和21年です。すでに戦争は終わっています。
日本と支那は、このときすでに交戦状態ではなかったのです。

つまり暴動が起きた、それも武器を持たない市民(旧軍人もこの時点では一般市民)の蜂起であったとすれば、鎮圧は国内の治安維持活動であるはずです。

にも関わらず、支那が行った行為は、暴行であり虐殺でした。

これが非道にあらずして、何をもって非道というのか。


それともうひとつ。
通化事件で、日本人は、たいへんな目に遭いました。

国が亡くなる、支那共産党に支配される。するとどういうことが起こるか。
その実例がこの通化事件にあります。

日本は良くない国だ、という人たちがいます。
支那と仲良くすることが良いことだと言う人たちがいます。
支那、朝鮮、日本を東アジア共同体として、ひとつの国にまとめあげようという人たちがいます。

しかし、実際にそうなったときの実例が、通化事件にあります。

そんなことは何十年も昔の話だろう、という人もいます。

しかし、天安門事件、あるいはウイグル弾圧、チベット弾圧等々。
いまも昔も、支那共産党はなんら変わらない。

家庭を守る。それは夫ならあたりまえに思うことです。

家族の平穏と安全、子供たちがすくすくと育つ環境。平和な社会。
それは、私たち普通の市民が、普通に思う心です。

しかしそうした家族の平穏、安全、社会環境、平和の一切は、国家がきちんとしていてはじめて成り立ちうるものです。

国を失うということ。
それがどんなにみじめでたいへんなことなのか。
通化事件は、そのことを、私たちに教えてくれているように思います。

私たちは、絶対に日本を失っちゃならない。
日本をもっと大事にしなきゃならない。
この国を守るために、必死に戦ってくれた先人たちに、もっと深く感謝しなければならない。
そして未来のために、私たちの子や孫のために、この日本を守り抜かなきゃならない。

ボクはそう思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。





今 中国は日本の国を属領化しようとしている・・と言っても

ほとんどの人は信じない。  考えたこともない。

日本人の常識は、世界の非常識。

日本

こんな素晴らしい国民性を持った国が 世界にどれだけあるでしょう。

私達は もっと 歴史を 学ばなければ なりません。

子供たちの未来を心配するならば  福島原発の放射能を恐れるよりも 

隣国の 歴史から 学ぶことが あるはずです。

通化事件、天安門事件、ウイグル弾圧、チベット弾圧など今もあります。

シナ共産主義の国が 理想的な国だと言えますか。

マスコミを信用してはなりません。

自分の目と耳と 五感をフル活用して 先人が 命を賭けて守ってくれたモノが何であるのか 

もう一度 立ち止まって 振り返って みませんか。


インパール作戦と パル判事  4/4

2011-09-27 13:37:18 | 本の話・素敵な話

4/4
英国にも日本の武士道に匹敵する騎士道精神が息づいています。

命を賭けた日本の将兵の戦いぶりに接したとき、たとえそれが国益であったとしても、英国の将兵たちは、果たして自分たちがインドを治めていることに、なんの意味があるのか、そんな気にさせられたのではないか、ということです。

作戦の全体を見る者、実際に日本兵と干戈を交えた英国の騎士たちは、インパールで日本の武士たちが示した、その「心」に気付いた。

実際、インパール作戦のあと、英国のインド駐屯隊が示したインド人の独立運動(英国軍に対する反乱軍)への対応は、当時の世界の常識からみて、あまりにも手ぬるいのです。

まるでやる気が感じられない。

ガンジーたちの非暴力の行軍に対して、銃を構えたまま、ほとんど発砲すらせずに、これを通しています。
それ以前の英国軍なら、デモの集団のド真ん中に大砲を撃ち込んでいる。

そして大東亜戦争のあとに行われた東京裁判では、なんと英国は、まだ独立も果たしていないインドから、わざわざ代表判事を送り込んでいます。
そうです。パル判事です。

そしてそのパル判事が日本を擁護する判決付帯書を書くことについて、当時の英国はまったくこれを容認しています。

なぜでしょうか?
どうして英国はパル判決を黙認したのでしょうか。

そもそも、植民地のカラード(有色人種)を、わざわざ判事に指名してきたのは、英国だけです。

その英国は、米国と同盟関係にあります。
ですから、東京裁判では、英国判事を出しています。

けれども英国は、自国の判事だけでなく、わざわざ有色人種のパル氏を判事として東京裁判の裁判官に名を連ねさせているのです。

およそ企業でも軍隊でも、用兵というものは、どういう人物を起用するかで、ほぼ決まる、といいます。

インド独立を希求するパル氏が判事となった場合、どういう判決を書くかは、裁判が始まる前から「わかる」話です。

加えて、英国にしてみれば、もし、英国領インドから送り出した判事が「気に入らない」なら、いつでも首をすげかえる、誰かに交代させることができたはずです。

けれど英国は、東京裁判という茶番劇(あえてこう書きます。はじめに結論ありきなら、それは裁判の名にさえ値しないからです)において、英国人判事には、米国との同盟関係に配慮して、連合国万歳の判決を書かせたけれど、植民地支配するインドの代表判事には、ちゃんとした「事実と正義」を判決として書かせています。

そこに、英国の「何か」を感じることはできないでしょうか。

インパール作戦当時の英国のインドのトップは、英国王室の人物です。
世界がどんなに歪んでも、わかる人にはわかる。

パル判決書は、インパールでメッセージを受け取った英国王室と、戦い、散って行った日本の武士たちがこの世に送りこんだ、正義の書といえるのではないでしょうか。

ボクには、そんな風に思えてならないのです。

おそらく、パル判事や、牟田口氏、インパール作戦の英国側指揮官ウィリアム・スリム中将に、「そうなのではないですか?」と問うたとしても、彼らは、笑って何も語らないと思います。

なぜなら彼らは、まさに武士であり、騎士であるからです。
そして武士であり、騎士であるからこそ、敵味方の将兵に多くの死者を出したことへの悔いを持ち、それがあるから、いっさいの言いわけをしない。

しかしだからと言って、彼らの行った事実を、うわっつらだけみて、安全な場所にいるわれわれ後世の人間が、感謝こそすれ、評価するのは間違いだとボクは思います。
それこそ卑怯者のすることです。

インパール作戦は、まさに世界史に残る「男たちの戦い」であった。

すくなくとも騎士道を持つ英国陸軍には、それがわかった。
わかったから彼らは、世界史に残る大会戦であるインパールの戦いについて、それを無用に誇ったり、記念日を作って祝ったりしなかった。

インパールの日本獅子たちは、私たち日本人の誇りだとボクは思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

最後にもうひとつ。

インパール作戦の退却行は、誰ひとり民家を襲うような非道な真似をしなかったのだけれど、そのことを誇るような記述をした人は、戦後、誰もいない、ということは、見過ごせない部分だと思います。

誇るどころか、関係のない民家を襲わないなんて、そんなことは「あたりまえ」のことにすぎない。
それが日本人だ、ということです。
そして、そうやってきたのが私たちの祖父の若き日であった、ということです。

世界では、襲うのがあたりまえで、襲わないことがありえない。
日本では、襲わないのがあたりまえで、誰ひとりそのことを誇ろうとさえしない。

さらにいえば、あの苦しい退却行において、生き残った人たちの手記を読むと、途中でビルマ人の青年に助けてもらった、あるいは民家の人たちが沿道で食事を振る舞ってくれたということに、心からの感謝を捧げている。

それが、日本人なのです。

なお、インパール作戦について、本文では、「負けるとわかって戦った」という一般の考察をそのまま記載させていただきましたが、異説もあります。

それは、インパール戦が、前半まで圧勝であったという事実です。
日本軍は、インパール街道の入り口をふさぐコヒマの占領に成功している。
コヒマの占領は、味方の補給ラインの確保を意味します。
従って、この段階では、日本軍側に補給の問題はなく、戦線は日本側有利に動いています。

このあと、牟田口中将は、近くにある敵の物資補給の要衝であるディマプールをつこうとしてます。
これが成功していれば、インパール作戦は、日本の勝利に終わっています。

そのことは、戦後になって敵将が、はっきりと認めています。

戦後左翼のああだこうだの評論よりも、戦った相手の言う事と、その後、何が起こったのかをきちんと見ることの方がよほど真実に近いのではないかと思う次第です。


【参考記事】
◆勇敢で高潔で、誰からも好かれた日本軍人
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-712.html

◆チャンドラ・ボーズ
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-668.html


とても感動しました。

このお話に出会えて良かった。

日本人であることに 誇りさえ感じます。

インパール作戦とパル判事 3/4

2011-09-27 13:35:19 | 本の話・素敵な話
   
3/4
牟田口中将以下の日本の将兵は、戦いに負けることはわかっていた。
補給さえないのです。
そして牟田口中将は「皇軍兵士」という言葉を多発しています。

自分たちの戦いの相手は、騎士道精神を持つ英国軍本体です。
ならば、かならず伝わる、そう思えたから、彼らは死を賭した戦いをしたのではないでしょうか。

だから「負ける」とわかっている戦いに、敢えて臨んだのだし、最初から死ぬつもりで出撃した。

当時生き残った日本兵が書いたどの本を見ても、戦いの最初から最後まで、日本兵の士気は高かったと書いています。

たとえば、社員数10万人の大手の企業で、負けるとわかっている戦いをした。
実際会社はそれで給料も払えずに倒産したら、そりゃあ社長はボロカスに言われます。
しかしひとりひとりの社員が、あるいは社員全員とはいいません。

中間管理職のみんなが、「自分たちのしていることは、社会的に意味のあることだ」という信念を持ち続け、最後のさいごまで、日々の業務に誠実に取り組んだら、おそらくその会社は倒産しても社員たちは、それでも製品を作り続けるだろうし、士気も高い。

インパール作戦は、そもそも「インド独立運動を支援する」ために組まれた作戦です。

その頃の日本軍は、すでに退勢にたたされていたのであって、戦線は縮小の方向に向かっていた。

にもかかわらず、インドという大陸に、第十五軍は進軍した。
インドの独立のために。
自らを捨て石とするために。


もうひとつ大事なことがあります。
餓鬼や幽鬼のような姿で街道を引き揚げた日本の将兵たちは、誰一人、街道筋にある村や家畜、畑を襲っていない、ということです。

お腹も空いていた。
病気にもかかっていた。
怪我もしていた。

退路の街道筋には、ビルマ人の民家が点在しています。
そこでは、時間になれば、かまどに火がはいり、おいしそうな食事のにおいがあたりをおおいます。

屋根だってある。
場所は熱帯です。
猛烈な暑さ、湿度、スコール等々。
自然環境は厳しい。
怪我をした体に、屋根は本当にありがたいものです。

けれど、誰一人、民家を襲ったり、食い物を奪ったり、家畜を殺して食べちゃったりとかをしていない。

退路を引き上げる日本兵は、銃を持っているのです。
銃で脅せば、飯も食える。
屋根の下に寝ることだってできる。
怪我の薬を奪うことだってできる。
腹いっぱいになったら、その家の娘や女房を強姦することだってできたかもしれない。

世界では、銃を持った敗残兵が、そのようなことをするのは、いわば「常識」です。
自分が生き残るためなのです。
しないほうが、おかしいといっていい。

けれど、約6万人が通り、うち4万名が命を落とした街道筋で、日本兵に襲われた民家というものが、ただの1件も、ない、というのは、どういうことでしょうか。

インパール作戦について、いろいろな人が、いろいろなことを書いています。

それに対して、インパール作戦に参加し、生き残った人々からは、なんの反論もされていません。

しかし、ひとつだけいえることは、インパール作戦を生き残った人たちは、インパール作戦を、「インパールの戦い」とは、いっさい認めなかったということです。

他の戦いは、たとえば硫黄島の戦いにしても、拉孟(らもう)の戦いにしても、「戦い」です。真珠湾は「攻撃」です。

しかし、インパールはいまだに「インパール作戦」です。

「戦い」は、目的の如何に関わらず、敵が攻めてきたら防戦しなければならない。
だから「戦い」と呼びます。

しかし、インパールは「作戦」です。
「作戦」というのは、目的があるから「作戦」なのです。

その目的は、「インドの独立に火をつけること」です。

インパール作戦には、当初大本営はガンとして反対していた。
それにたいし、「どうしても実行を!」と迫ったのは、当時日本に滞在していたチャンドラ・ボーズです。

チャンドラ・ボーズは、インド独立の志士です。

そして大本営は、チャンドラ・ボーズの意思を受け入れ、「作戦」の実施を牟田口中将に命じます。

牟田口中将以下のビルマ駐屯隊の将官たちは、それが「どういう意味を持っているか」。
その「作戦を実施」することが、自分たちの運命をどのようなものにするか。

彼らは戦いのプロです。
瞬時にしてその「意味」も「結果」も悟ったであろうと思います。

そして、すべてをわかった上で、作戦命令を実行した。

だから彼らは、インド国民軍の主力をまるごと温存したのではないでしょうか。

自分たちは、ここで死ぬ。
あとは君達で頑張れ。
そこに、おおきなメッセージが込めれられているように思えてならないのです。

普通なら、世界中どこでもそうであるように、この種の戦いでは、むしろインド国民軍を先頭にします。それが世界の戦いのセオリーです。

なにせ、インドの独立のための戦いなのです。
インド国民軍を先頭に立てて、なにが悪い。

しかし、牟田口中将以下の日本の将兵は、それをしませんでした。
自分たちが戦いの先頭に立った。

軍だけではありません。
個別に数名のインド兵を率いた日本の下級将校たちも、みんなそうした。
それが史実です。

「この戦いで、日本は負けるかもしれない。
しかし、ここで戦った日本兵の心は、インドの人々の心に残り、かならずやインドの人々の決起を促すであろう」

インパール作戦は、まさに「肉を切らして骨を断つ」という武道の奥義です。
だから、インパールは「作戦」なのです。

そして「作戦」は成功し、間もなくインドは独立を果たしています。

このお話は、さらに続きます。


インパール作戦とパル判事 2/4

2011-09-27 11:16:15 | 本の話・素敵な話

2/4

このブログで、武道の心について何度か書かせていただいています。

欧米における格闘技は、敵を殺し、倒すためのマーシャルアーツです。

ところが日本武道は、試合や勝負における「勝ち」を、からなずしも「勝ち」としていない。

スポーツにおける「勝ち」は、試合に勝つことです。
そのためには、体を鍛え、技を磨く。

しかし、日本武道における勝ちは、試合に勝てばよいという考え方をとりません。
試合というのは、どんな場合でも、単に「模擬戦」にすぎない。
本当の勝利は「克つこと」というのが、武道における勝利の考え方です。

その場の勝ちだけでなく、最終的、究極的な勝ちをもって、勝ちとする。

たとえば、小柄な男性が、好きな女性とデートの最中に、大男に囲まれて、女性を差し出せと要求される。
小男が拒否する。
小男は、ハンゴロシになるまでボコボコに殴られる。
普通なら、寝転がって「うう・・」となってしまう。

しかし「心・技・体」、「心」を鍛えたこの小男は、殴られても殴られても何度も立ち上がる。
気を失っても、まだ立ち上がる。

いいかげん気持ち悪くなった大男たちは、帰っていく。
女性は暴行されずに助かる。

殴り合いの勝ち負けでいったら、このケンカは、大男の勝ちです。
小男は負けです。

けれど、大好きな女性を護りきったという点、(目的を達成した)という点からみれば、小男は「勝ち」です。

どっちが勝ったといえるのかといえば、両方勝った。
それが武道の心です。

武家に生まれたら、たとえ武芸に秀でていなくても、たとえ小柄で非力でも、たとえそのとき病んでいたとしても、すでに老齢になっていたとしても、戦うべき時には戦わなければなりません。

相手が野盗の群れのような大軍だったら、戦えば死にます。

しかし、たとえ自分が死んだとしても、野盗が盗みをあきらめて帰ってくれれば、みんなの生活の平穏が保たれる。

そのために自分が死んだとしても、みんなを護るためなら、喜んで戦い、死ぬ。
戦いでは「負け」たかもしれないが、みんなを守ったという点では「勝ち」です。
それが武道の「勝ち」です。

マンガ「明日のジョー」で、矢吹ジョーが、ホセ・メンドーサと試合します。
殴られても殴られてもジョーは立ち上がる。

ホセは、いいかげん気味悪くなって、さらに矢吹ジョーをボコボコに殴る。

ジョーは、もはやガードの姿勢をとることすらできない。
それでも立ち上がる。何度も立ち上がる。

普通、常識でいったら、タオルがはいって、試合はジョーの負けです。

マンガの試合結果がどっちだったかは忘れてしまいましたが、なんとなく覚えているのは、この試合でホセは、ジョーに対するあまりの恐怖のために、髪が真っ白になり、現役を引退してしまう。

リングの上の勝負ではホセが勝った。
けれども、その結果ホセは引退し、ジョーは、次の対戦に臨む。
ホセも勝った。ジョーも勝った。
ふたりともよく戦った。

要するに武道は「心・技・体」なのです。

スポーツは、逆に「体・技・心」。

なにがあっても負けない強い心、自らの死を賭してでも目的を貫き通す強い心を養う。それが日本の武道であり、武士道の精神です。

スポーツが単に体を鍛え、試合に勝つことを目的としていることに対し、武道は、心を鍛えるために技を習得し、体を鍛える。
まったく発想が逆です。

そうした武道の「心」からインパール作戦を考えると、巷間言われている筋書きとはまったく別なストーリーが、その「作戦」から見えてきます。

インパール作戦は、インド・ビルマ方面における、日本軍のほぼ全軍と、英国のインド駐屯隊のほぼ全軍が会戦した大会戦です。

実際、英国はインパールに15万の兵力を展開し、対する日本軍は9万です。
この時点でビルマにいたインド国民軍4.5万を合わせると、兵力はほぼイーブンです。

しかし牟田口中将は、インド国民軍の本体をインパールに参戦させていません。
そして、約4.5万のインド国民軍の兵士のうち、どうしても一緒に戦いたいと主張して譲らない6千名だけを連れて、牟田口中将はインパールへ出陣します。

インド国民軍を合わせれば、兵力はイーブンになるのに、わざわざインド国民軍をおいてけぼりにしているというのは、ふつうに考えて、あり得ないことです。

ただでさえ、火力が足らないのです。
これにさらに兵力不足が重なれば、これはもう、わざわざ負けに行くようなものです。

しかも補給がありません。物資がないのです。
食い物すらない。

「インパールは補給を無視した無謀な戦いである」などとよく言われますが、補給物資がすでにないことは、牟田口中将以下、軍の参謀たちも、参加した兵たちも、みんなはじめからわかっていたことです。
補給路の確保とかの問題ではありません。そもそも補給すべき物資がハナからないのです。

それでも日本軍は、ジャングルのなかを、遠路はるばる行軍します。
そして、インパールの戦場に向かった。

そして2か月を戦い抜いた。2か月というのは、ものすごく長い期間です。
かのワールテルローの戦いだって、たった1日の大会戦です。

補給がないということは、単に食料や弾薬がないというだけにとどまりません。
医薬品もありません。

場所はジャングルの中です。
山蒜(ひる)もいるし、虫もいる。
マラリアもある、デング熱もある、アメーバー赤痢もある。
日本の将兵たちは、敵と戦うだけでなく、飢えや病魔とも闘わなければならなかった。

そして戦いの早々に、日本軍の指揮命令系統は壊滅します。

それでも、ひとりひとりの兵たちは、ほんの数名の塊(かたまり)となって、英国軍と戦い続けました。

日本軍と撃ちあった英国軍の将兵は、銃声が止んだあと、日本の兵士たちの遺体を見て何を感じたのでしょう。

英国の兵士は、栄養満点の食事をとり、武器弾薬も豊富に持っています。
そして自分たちのために戦っています。

ところが日本の将兵は、他国(インド)のために戦い、武器・弾薬も不足し、食料もない。
ある者はガリガリにやせ細り、ある者は大けがをしている。
遺体は、まるで幽鬼です。

ガリガリに痩せ細り、まるでガンの末期患者の群れのような少数の兵士が、弾のない銃剣を握りしめてそこに死んでいる。
殺しても殺しても向かってくる。

最初のうちは、英国の将兵たちも、勝った勝ったと浮かれたかもしれません。
しかし、それが何日も続く。
何回も続く。

軍としての統制と機能は、とっくに崩壊しているはずなのに、ひとりひとりが戦士となって向かってくる。

降参を呼び掛ける。
でも、誰も降参しない。

弾も持たずに、銃剣ひとつで向かってくる。

そんな戦いが60日以上も続いたのです。
人間なら、誰もがそこに「何か」を感じる。

まして騎士道の誇り高い英国の兵士たちです。
彼らはそこに「何か」を感じた。

ようやく日本軍は潰走をはじめます。
街道を撤退しはじめた。

マラリアに犯され、敵弾を受けて怪我をし、食い物もないガリガリに痩せ細った姿で、街道をよたよたと下がり始めます。

そこには、日本の将兵の何万もの遺体が転がった。

インパール作戦について不思議なことがあります。
それは、現在にいたるまで、英国軍が日本軍を打ち破った誇りある戦いとしてインパールを「誇って」いない、ということです。




ねずきちさん

すみません。

待ちきれなくて 勝手に ねずきちさんブログから 持ってきてしまいました。
お許し下さい。


◆ インパール作戦とパル判事(1/4) ◆

2011-09-27 10:28:20 | 本の話・素敵な話

 ■□【1】インパール作戦とパル判事 (1/4)

『日本の心を伝える会』
<代表者ブログ>ねずきちの ひとりごと さんより


◆ インパール作戦とパル判事(1/4) ◆

今日から4日間にわたり、インパール作戦とパル判事についての記事をお届けします。

白骨街道というのは、ご存じのとおり、インパール作戦における退却路です。

インパール作戦で敗退した日本軍は、退却戦に入っても飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受けながら、退路地を退いて行きました。

飢えて衰弱した体でマラリヤや赤痢に罹患し、負傷して痛む体を引きずって、この道を約7万の日本陸軍の兵士たちが退却した。

そして街道で約4万人の日本兵が亡くなり、無事に帰還できた者はわずか2万名でした。

途中の退路には、日本兵の白骨死体や腐乱死体が点々と折り重なっていたところから、白骨街道の名前がつけられました。

その道筋では、亡くなって一か月経過した者は白骨となっています。

亡くなって一週間程度の屍はどす黒い汁が流れ、黒い大型のピカヒカ光る蠅が群がり、黒い大きな固まりがそこにあるように見えたそうです。

なにかの拍子に蠅が飛び上がる。
すると遺体がもぞもぞと動いて見えたそうです。
大量の蛆が、遺体を食べながら動いているのです。
すさまじい腐臭です。

その一体、一体が、尊い命です。
歓呼の声に送られて出征した、笑顔さわやかな頼もしい皇軍兵士たちです。

生きて生還できた小田敦己さんの談話には、次のような記述があります。

~~~~~~~~~~~~~
半日前とかー時間ほど前に息を引き取ったのか、道端に腰掛けて休んている姿で小銃を肩にもたせかけている屍もある。

また、手榴弾を抱いたまま爆破し、腹わたが飛び散り「真っ赤な鮮血が流れ出たばかりのものもある。

そのかたわらに飯盒と水筒はたいてい置いてある。
また、ガスが充満し牛の腹のように膨れている屍も見た。

地獄とは、まさにこんなところか・・・・ その屍にも雨が降り注ぎ、私の心は冷たく震える。

そのような姿で屍は道標となり、後続の我々を案内してくれる。

それをたどって行けば細い道でも迷わず先行部隊の行った方向か分かるのだ。

皆これを白骨街道と呼んだ。

この道標を頼りに歩いた。

ここらあたりは、ぬかるみはなく普通の山道で緩い登り下りである。
雨があがり晴れれば、さすかに熱帯、強い太陽か照りつける。

暑い。
衰弱しきった体には暑さは格別厳しく感じられる。

≪一兵士の戦争体験ビルマ最前線白骨街道生死の境 小田敦己≫
http://www.geocities.jp/biruma1945/index.html
~~~~~~~~~~~~~

英国軍は、この退路にも、しばしば現れて、容赦なく銃弾を浴びせました。

撃たれて死んだ者、伝染病に罹患して餓死した者の遺体や動けなくなった兵は、集団感染を恐れて生死を問わずガソリンをかけて焼却したといいます。

インパール作戦というのは、昭和19(1944)年3月から6月にかけてインド北東部の都市インパールを目指してビルマ北部で展開された戦闘です。

日本は、この戦いで敗退しました。

作戦を指揮した牟田口中将も、
「戦場でもっとも大切な兵站を無視した無謀な戦いをした」
「牟田口中将はバカである」
「はじめから意味のない戦いだった」
等々、戦後あらんかぎりの罵声が浴びせられました。

実際、日本兵9万が出撃し、3万名が戦死、4万名が戦病死したのです。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」は世のならいです。
まして多くの味方の人命が奪われる負け戦では、それを指揮した将校は、後々の世までボロかす言われる。
それはある意味しかたがないことかもしれません。

しかし、思うのです。
負けた戦いを、単に「負けたからアイツはバカだ」というのは簡単です。
けれどそんな「評価」をいくらしたところで、失われた人命が帰ってくるわけではありません。
むしろ後世を生きる人間にとってたいせつなことは、そのように歴史を「評価」することではなく、歴史から「何を学ぶか」にあるのではないかと思うのです。

インパール作戦についてみれば、後世の我々からみて不思議なことがいくつかあります。

昭和19年といえば、もはや戦局は厳しさを増してきているときです。
日本は、全体として防衛領域の縮小を図ろうとしていた時期にあたります。
にも関わらず、牟田口中将は、なぜあらためてインドへ向けて出撃しようとしたのか。

兵站が不足している。
それは行く前からわかっていることです。
にもかかわらず、敢えて、出撃したのはなぜか。

無謀な作戦、意味のない作戦だったというけれど、それならなぜ、英国軍はインド方面の総力ともいうべき15万の大軍を出撃させてこれを迎え撃とうとしたのか。
意味がないなら、迎撃する必要さえないはずです。

そしてまた、英国軍15万に対し、日本軍は9万の兵力です。
日本側には、インド国民軍の兵士4.5万人がいたけれど、なぜか日本軍はインド国民軍を6千名しか戦いに参加させていません。
4万のインド国民軍を温存したのです。
どうしてインド国民軍を、厳しい戦いとなることが分かっているこの戦いに参加させなかったのでしょう。

さらにこの戦いは、英国15万対日本軍9万という歩兵陸戦の大会戦です。

世界史に残る有名な歩兵大会戦といえば、ナポレオン最後の戦いといわれるワーテルローの戦い(フランス軍12万、英欄プロイセン連合軍14万)、明治3(1870)年のセダンの戦い(フランス軍12万とプロイセン軍20万の戦い)、日露戦争の奉天戦(日本軍25万、ロシア軍31万)などがあげられます。

インパール作戦は、これに匹敵する大規模な陸戦です。
にも関わらず、英国は、このインパール会戦について、「勝利を誇る」ということをしていません。

こうなると、巷間言われている、単に無謀な戦い、意味のない戦いというのは、なにか違和感を覚えます。


《明日のメルマガに続く》


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回回回回回回回回回回回回回回回回回回回



うーーむ

なぜ 英国は、このインパール会戦について、「勝利を誇る」ということをしなかったのか・・・

知りたいですね!!


さて
今NHKで国会やっています。

私は、こうゆうのは あまり見ないんです。
つまらないから。

でも、今日は面白かった。
今録画中。
何が面白かったかというと・・自民党の石破さんの質疑が 素晴らしかった。

思わず 聞き惚れた・・。

バシバシ 民主党を 正論で やりこめた と思うんです。

でも 野田首相 ドジョウのように ヌルヌルと 逃げるんだよね。

私は 幸福実現党を 応援しています!

石破さんも好き!