あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

フィリピンと我々をつなぐ倫理

2013年11月12日 23時45分44秒 | Weblog
 フィリピンの台風被害には言葉がない。
 ぼくは全くの無力で、ただ被災者の皆さんに心からお見舞いと、不幸にもお亡くなりになった方々のご冥福を祈ることしかできない。とても歯がゆい。

 それにしても、これが地球温暖化によるのは明らかだ。現在開かれているCOP19の会議に参加しているフィリピン代表が嗚咽をこらえながら発言しているのをテレビで見た。彼は大変冷静で、必ずしも今回の台風が温暖化によるものとは言えないが、温暖化が進めば気象被害が大きくなるのは科学的に明らかだ、将来の母国がスーパー台風の被害にあい続けることは容認できないとインタビューに答えていた。

 温暖化問題が指摘されてからいったいどれほどのたっただろう。なぜ人類は何の対処も出来なかったのだろう。
 確かに科学的な解明が出来ているわけではない。誰の責任なのかという論議も答えが出ない。しかしそんなことをグダグダ言っている場合ではなかったのだ。
 事実として地球表面の気温は急激に上昇しており、その結果、多くの悲劇が起こることははっきりしていた。まずはそれに対処することが最重要のことだったはずだ。

 しかし、たとえば原発事故もそうだが、取り返しのつかない大きな危機に直面してもなお、人は自らの強欲に勝つことが出来ない。いつかおきるどこかの誰かの危機より、今日の自分の豊かさの方が大事なのだ。
 もちろん人間は弱い。自分自身には自分の強欲をコントロールすることは難しいかもしれない。しかしだからこそ社会的倫理が存在するのではないのか。そしてそれを体現するものがたとえば政治なのではないのか。
 ところが政治家が口にする社会的倫理は結局のところ、自分や自分に関わる人の強欲を合理化して肯定し、本当に重要で必要な強欲を多い隠すことにしかなっていない。

 つい先日、道徳の授業を正規の科目にするという提言だか進言だかがまた行われた。戦前の「修身」の復活を目指す保守勢力がずっと以前から主張してきていることをまた繰り返しているのだ。もちろん子供たちに倫理を教えることが悪いわけではない。しかし今の日本のどんな大人が、子供に倫理・道徳を語れるのか。
 たびたび紹介するのだが、新約聖書の福音書に書かれているエピソードに、イエスが石打の刑の現場に通りかかる話がある。イエスは罪人のまわりで石を投げつけようとする群衆に対して「自分自身はこの女と違ってひとつも間違いを犯していないと言い切れる者だけが石を投げなさい」と語りかける。そうすると誰一人石を投げられる者はいなかった。
 これが倫理であり道徳であると、ぼくは思う。
 倫理はどこにあるのか。それは自分たちの内側である。他人のことをあげつらうことが倫理でないことは明白だ。それでは自分のどこに倫理はあるのか。それは自分自身に対する内省である。反省であり自己批判であり自己否定である。そこにこそ倫理が存在する。
 自分たち(の国)がおかした侵略に対する責任を、強い相手から言われる時には認めるふりをするが、本心からは反省せず、ことあるごとに責任をあいまいにしようとし続ける奴らに、道徳だの倫理だのと言う資格はない。

 話がそれた。
 つまり必要なのはまず自分自身の「身を切る改革」である(どこかで聞いた言葉だが)。自分(たち)の即時的な利益を考え始めたら、誰も温暖化を止めることが出来ない。鉄筋コンクリートの上層階に住んでいる人に、平屋に住んでいる人の高潮被害は関係がない。しかしそれはその瞬間だけのことだ。すぐに一階部分が浸水したら電気も水道もエレベーターもストップし、結局は自分自身も窮地に追い込まれてしまう。
 そのことに思い至ることが肝心だ。
 フィリピンの悲劇は我々の責任であり、そしてそれはまた、すぐに我々自身に降りかかってくることを、本気で理解しなければならない。