「この道」の目指す物理的な目的は、かんろだいの建設とそれを目標とするかんろだいづとめです。みかぐらうたとおふでさきは、それを目標にして順次に展開していく。十七号は、その総集編とも言うべきまとめの号である。
このだいがみな揃いさえしたならば どんな事をが叶わんで無し
それまでにせかいぢいいをとこまでも むねのそふぢをせねばならんで 十七 11
それまでに世界中を何処までも 胸のそうじをせねばならんで
「どんな事をが叶わんで無し」という境地にたどり着くための順路に「胸のそうじ」が欠かせない。そこで、「胸のそうじ」するその主因をあげる
いまゝでハとんな心でいたるとも いちやのまにも心いれかゑ 十七 14
今まではどんな心でいたるとも 一夜の間にも心入れ替え
12~23は、これから伝える月日の重要な思惑を的確、速やかに伝わるよう人々の波動を高めて、それを受け入れる素地をつくりたい、という月日の強い思惑がある。
今まではどの様な事も聞いてきた この度こそは残念晴らすで
このはらしとふゆう事にをもうかな なんどきどこでしりぞくやらな 十七 26
この晴らしどういう事に思うかな 何時何処で退くやらな
「刻限」が来ているから、ここまでの月日の「残念」を「晴らす」が、だからと言って、これまでのような伝え方を繰り返すなら、そのまま先送りしてしまうから、小寒、秀司に対したように、「せへつう」を待って、最後通告をして目覚めを促した。そこで、今度はまつゑを含めた回りの全ての人に、これを最後として「月日退く」からと最後通告して、皆の注意を引きつける。
そして、これからここまでの全ての「残念を晴らす」ために「かえし」をする、と言い放って、おつとめの実行を迫る。
34から37 で、その「残念」の内容を伝えて、おつとめをする目的を再確認させる。
今まではこの世創めた人間の 元なる地場は誰も知らんで
このたびハこのしんちつをせかへちうゑ どふぞしいかりをしゑたいから 十七 35
この度はこの真実を世界中へ どうぞしっかり教えたいから
こんな事創めかけるというのもな 世界中をたすけたいから
かんろだいは、ギとミの身の内の本真ん中であることを伝え、そこに永遠の生命が宿ることを明かす。そして、これからその神意にそい、おつとめしようと皆が前向きになった時に、その心の内を確かめるように
それをばななにもしらさるこ共にな とりはらハれたこのさねんわな 十七 38
それをばな何も知らざる子供にな 取り払われたこの残念はな
しかと聞けこの先なるはどの様な かやしあるやらこれ知れんでな
そのかんろだいが第三者に取り払われてしまった。このまま心を倒してしまったのでは、もともこもなくなってしまう。それを元に戻したいが、そのためには第一に心のたて直しを図らねばならない。だから、なんとしてでも「かやし」して、事の意味とその事の内に潜む神の思惑を分らせる必要があるのです。
このみちハどふゆう事にをもうかな 月日ざんねんいちじよの事 十七 57
この道はどういう事に思うかな 月日残念一条の事
このざねんなにの事やとをもうかな かんろふ大が一のざんねん 十七 58
この残念何の事やと思うかな かんろふ大が一の残念
ここでは、「残念」「残念一条」と、どちらからと言えば、悲観的な表現を敢えて連発することで、「かえし」の効果をあげる狙いが感じられる。しかし、そんな中にも、親、子としての関係を築きながら、真実の道を歩ませたいという月日の親心が十分に感じられる。
どのよふな事がありてもうらみなよ みなめゑへにしてをいたのや 十七 60
どのような事がありても恨みなよ みな銘々にしておいたのや
このかやし何の事やと思ている 神の残念ばかりなるぞや
かんろだいが取り払われたその事実によって、おつとめの完成が遅れることは、由々しい事態だから、そのことを「恨みに思う」ことは仕方がないと思うだろうが…
「みな世界の胸のうち鏡の如く写るなり」と歌っているように、出来事の全ては、みなの心の内の反映ということを思い出し、それが月日の「かえし」であると受けて入れ、直ぐにでもおつとめで「胸のそうじ」をするように促す。
かんろだいが形を現すのに対して、おつとめは「たすけ」であり、精神面の守護する。
たすけでもあしきなをするまてやない めづらしたすけをもているから 十七 52
たすけでも悪しき直するまでやない 珍したすけ思ているから
かんろだいづとめの中心はギとミの本真ん中、新しい生命と永遠の生命のシンボル。それを目標におつとめして、「胸のそうじ」するなら物への執着が消えて、心に豊かさが湧き「恐れ」が消えて、至福が訪れる ― 「病まず死なず弱りなきよに」 ― 「これまでは何処訪ねても無い事や このたび神が始めたさやで」
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講
このだいがみな揃いさえしたならば どんな事をが叶わんで無し
それまでにせかいぢいいをとこまでも むねのそふぢをせねばならんで 十七 11
それまでに世界中を何処までも 胸のそうじをせねばならんで
「どんな事をが叶わんで無し」という境地にたどり着くための順路に「胸のそうじ」が欠かせない。そこで、「胸のそうじ」するその主因をあげる
いまゝでハとんな心でいたるとも いちやのまにも心いれかゑ 十七 14
今まではどんな心でいたるとも 一夜の間にも心入れ替え
12~23は、これから伝える月日の重要な思惑を的確、速やかに伝わるよう人々の波動を高めて、それを受け入れる素地をつくりたい、という月日の強い思惑がある。
今まではどの様な事も聞いてきた この度こそは残念晴らすで
このはらしとふゆう事にをもうかな なんどきどこでしりぞくやらな 十七 26
この晴らしどういう事に思うかな 何時何処で退くやらな
「刻限」が来ているから、ここまでの月日の「残念」を「晴らす」が、だからと言って、これまでのような伝え方を繰り返すなら、そのまま先送りしてしまうから、小寒、秀司に対したように、「せへつう」を待って、最後通告をして目覚めを促した。そこで、今度はまつゑを含めた回りの全ての人に、これを最後として「月日退く」からと最後通告して、皆の注意を引きつける。
そして、これからここまでの全ての「残念を晴らす」ために「かえし」をする、と言い放って、おつとめの実行を迫る。
34から37 で、その「残念」の内容を伝えて、おつとめをする目的を再確認させる。
今まではこの世創めた人間の 元なる地場は誰も知らんで
このたびハこのしんちつをせかへちうゑ どふぞしいかりをしゑたいから 十七 35
この度はこの真実を世界中へ どうぞしっかり教えたいから
こんな事創めかけるというのもな 世界中をたすけたいから
かんろだいは、ギとミの身の内の本真ん中であることを伝え、そこに永遠の生命が宿ることを明かす。そして、これからその神意にそい、おつとめしようと皆が前向きになった時に、その心の内を確かめるように
それをばななにもしらさるこ共にな とりはらハれたこのさねんわな 十七 38
それをばな何も知らざる子供にな 取り払われたこの残念はな
しかと聞けこの先なるはどの様な かやしあるやらこれ知れんでな
そのかんろだいが第三者に取り払われてしまった。このまま心を倒してしまったのでは、もともこもなくなってしまう。それを元に戻したいが、そのためには第一に心のたて直しを図らねばならない。だから、なんとしてでも「かやし」して、事の意味とその事の内に潜む神の思惑を分らせる必要があるのです。
このみちハどふゆう事にをもうかな 月日ざんねんいちじよの事 十七 57
この道はどういう事に思うかな 月日残念一条の事
このざねんなにの事やとをもうかな かんろふ大が一のざんねん 十七 58
この残念何の事やと思うかな かんろふ大が一の残念
ここでは、「残念」「残念一条」と、どちらからと言えば、悲観的な表現を敢えて連発することで、「かえし」の効果をあげる狙いが感じられる。しかし、そんな中にも、親、子としての関係を築きながら、真実の道を歩ませたいという月日の親心が十分に感じられる。
どのよふな事がありてもうらみなよ みなめゑへにしてをいたのや 十七 60
どのような事がありても恨みなよ みな銘々にしておいたのや
このかやし何の事やと思ている 神の残念ばかりなるぞや
かんろだいが取り払われたその事実によって、おつとめの完成が遅れることは、由々しい事態だから、そのことを「恨みに思う」ことは仕方がないと思うだろうが…
「みな世界の胸のうち鏡の如く写るなり」と歌っているように、出来事の全ては、みなの心の内の反映ということを思い出し、それが月日の「かえし」であると受けて入れ、直ぐにでもおつとめで「胸のそうじ」をするように促す。
かんろだいが形を現すのに対して、おつとめは「たすけ」であり、精神面の守護する。
たすけでもあしきなをするまてやない めづらしたすけをもているから 十七 52
たすけでも悪しき直するまでやない 珍したすけ思ているから
かんろだいづとめの中心はギとミの本真ん中、新しい生命と永遠の生命のシンボル。それを目標におつとめして、「胸のそうじ」するなら物への執着が消えて、心に豊かさが湧き「恐れ」が消えて、至福が訪れる ― 「病まず死なず弱りなきよに」 ― 「これまでは何処訪ねても無い事や このたび神が始めたさやで」
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講