「ウチの人も幸吉さんみたいだったら―」お千加は続く言葉をのみこんだ
きつい姑の言いなりで 庇う一言もくれなかった夫
お照は聞こえなかったふりをした
幸吉の好みも覚え 新しい生活にそれなりの落ち着きができてきた頃 怒鳴りこんできた男がいる
お千加の亭主 大工の新太だ
「何を騒いでいるんですよ」 店の隣りの小座敷で縫い物をしていたお千加が立って出てくる
「店先でおかしなことを言っておくれでないよ」
お千加はけんある表情をみせる
共に暮らした頃は初々しくうつむいてばかりの女だった
その変貌ぶりに新太は ぽかんと口をあけている
「別れて何年経つと思ってるんですか 亭主面は 今さら迷惑ですよ」
出ていった女房が男と暮らしてる
そう聞かされて ただ頭に血が上り 店へ押しかけた新太だった
それが 身なりもこざっぱり しかも少し垢抜けた女を見ることとなった
「長屋が駄目になって住む所も仕事もないわたしたちの為に 兄さんが幼馴染みの幸吉さんに頼んでくれたんです」
横からお照が言葉を添える
陽(ひ)に焼けた新太の顔が少し青く見える
「俺は―俺はよ・・・」言いかけて くるりと向きをかえ 出ていった
「な・なんだい 馬鹿にしているよ お照 塩まいておやり あ~気が くさくさする」
ぷりぷりしながら お千加が小座敷に戻っていく
今のお千加なら 言われっ放し いじめられっ放しではいないだろう 出戻り 父親の死 水害 それらは随分お千加を強くしているのだった
平介の気配りに お照の姉として自分もしっかりしなければと思ったのだろうか
姉妹で磨き上げるものだから 幸吉の店は随分綺麗になった
で小間物なども置いている
「お千加さん肌が随分綺麗ねぇ」そういう同じ年頃の客に
「あたしは ずっと これ使ってるの あんまりいいものだから店でも売ることにしたのよ」となかなか商売上手だ
お照は にこにこしながらお茶を運ぶ
「ま・・・あ すまないねぇ どこぞのお店(たな)の お内儀にでもなった気分だよ」じっくり腰を据えた客は 一枚一つ二つ余分に買っていく
ささやかなことだが それが月になると随分儲けも違ってくる
夕餉を食べながら 幸吉は笑顔だ
「平介さんが口きいてくれて 有難いことだ
こんな美味しいご飯をいただき 商いも順調です
お千加さん お照さん 有難う」
世話になってるのは姉妹の方だのに感謝の気持ちを忘れない幸吉だった
よく働く男である 体を動かすことが苦にならないのであった
「これでも昔はバカやって お袋に苦労かけたんですよ」
供養だと思って商いに身を入れているのだと
姉妹が離れに引きあげてからも帳簿 在庫調べ 色々仕事をしている
一人置いた小僧が二人になりして 賑わいをましていく
小僧達は災害で親を失い身寄りがない
お店が家だ
幸吉は言う「良い手代 番頭になっておくれ」
縫うのも姉妹では間に合わず長屋の小さな子がいて働けないおかみさんなどにも頼むようになった
店は手狭になってきたが「余り商いを大きくしてもね―」と幸吉は手堅い
そうしてお照は お千加から相談される
「見舞いに行ってもいいかしら」
新太の母 お米(よね)が 熱がひかず 仕事に出られず 困っているのだと言う
「あの気性なものだから 誰も近寄らないらしいのよ」
あれだけいじめられたのに お千加はお米を心配しているのだった
そこがお千加のいいところだろう
今ならお米とも渡り合えるのではないだろうか
「行ってらっしゃいよ おねえさん たんと看病してきてあげるといいわ」
そうだった 新太さんは 姉さんが好きで 姉さんも新太さんが好きで それで夫婦になったんだった
と お照は思い出す
お千加が出戻ってきた年に お照はなっている
お千加と入れ違いに幸吉が帰ってきた
「あら 早いんです―」言いかけ お照の顔色が変わる
幸吉は足を怪我していた
「知らずに腐った板を踏み抜いてしまってね お得意さんへは 鉄太 勇吉に おわびに行ってもらいました」
たいしたことはないから ―という幸吉の傷をさっと汚れを落とし 布でていねいにぬぐい 強く縛っておいて 医者を呼びに行った
手当てを終えた医者が念のためにと塗り薬の他に痛み止めを出して帰るのと入れ違いに 鉄太と勇吉が戻り 待っていたように稲妻が走り 激しい雨が降ってきた
「怪我をしたおかげで濡れずにすみましたよ」と幸吉は呑気なことを言う
小僧二人に握り飯と味噌汁を ささっと作ってやった お照は呆れ顔だ
「そう言えば お千加さんは」
「知り合いの加減が悪いものですから 見舞いに行っております」
足の怪我もあるし この雨では 風呂へ行けず 沸かした湯を お照は 幸吉の部屋へ運んだ
それから夕飯の支度をする
焼いた魚を酢につけておいたの 野菜を煮たの そんな簡単なおかずである
小僧達は土間横の小部屋で食べる
普段は幸吉もここで一緒に食べるのだが 部屋までお膳を お照は運んで行った
体を拭き 着替えた幸吉は さっぱりした様子だ
「気が付きますねぇ お照さんは いいおかみさんになるんでしょうねぇ」
平介の妹と言うこともあってか 幸吉も お照に対しては 兄の目線になっている
出戻りのお千加には多少遠慮する境のようなものがあった
美男の幸吉に優しく見つめられると 相手にそんな気持ちはないと判っていても お照の心は波立つのだ
頬染めて下向くお照の姿に 幸吉は話題を変えた
「明日は店にいようと思います お照ちゃん どっか遊びに行っていいですよ」
そう言われても 何処かへ遊びに行ったこともないお照だった
でも言われたからには何処へも行かないわけにもいかない
―平介兄さんを訪ねてみようか
柳橋近くに平介の働く店はある
最近主人が病気なので 殆ど平介が切り回しているのが実情
お内儀の信頼も厚い
初めて店に来た客は 若旦那かと思うらしい
そんな落ち着きが 平介にはあった
老夫婦はすっかり平介を信用していた
お照が訪ねていくと 小僧さんが裏にいると教えてくれた
平介は上半身裸で 鉋を使っている
お照に気がつくと額の汗を振って落として笑った
「おやじの見よう見まねでさ」
古くなって雨戸の滑りが悪いのを直しているのだと言う
「きらきら屋」には前は番頭がいたのだが どっかのお妾と深い仲になり 逃げてしまった
以来 平介は便利屋よろしく何でもこなしている
簪 甘いお菓子 綺麗な紙
あれこれ店先に並べてあるが それを選んで仕入れるのも平介の仕事だった
訪ねてきたのが妹と知ると 主人の源十は半日の休みをくれた
「着替えてくるから」平介が部屋に引っ込むと お内儀の お磯が 茶と菓子を出す
「さっきは とうとう平介にもいい人ができたのかと思いましたよ」
などと言う
出掛けようとする平介を呼びとめ お磯は何か言いながら 小遣いを持たせていた
「さあて」店を出た平介が言う
両国か浅草か どっち行こうと
兄ながら さっきの平介の厚い胸板など思い出され お照はどぎまぎするのだ
「お内儀さんがね お兄さんにはいい人いないんだろうか―って言ってました」
「あたしが嫁さん貰うのは まだうんと先ですよ」笑いながら お照に話を向ける「お前は誰かいないのかい」
お照は無言で首を振る
「悪い虫がついても困るが」
浅草寺にお参りし 並ぶ店をひやかして歩く
「兄妹ではつまんねぇ道行きだ」などと憎まれ口叩きつつ
菓子 簪 小さな笛まで平介はお照に買ってやった
名残惜しげに途中まで送り
「気をつけて帰んな」
見送ってくれる姿が何処か寂しそうだった
―お兄ちゃんなのに―お照の胸は きゅんとなった