弟は、大阪勤務で芦屋に住んでいた。
私は、1歳の娘といつもとおりの慌しい午前中を過ごし、
地震を全くしらないまま、TVをつけて。
あの、映像を、観た。
「どこかの国の戦争?」
そう、思った。
あちこちに火の手の上がる恐ろしい画面。
それが、神戸だった。
電話をかけたらいけない、と理性では判っていても、じっとしていられなくて受話器を握り、そのうちに実家から「無事だった!」と連絡が入って気が抜けて・・・
あれから12年。
記憶には当然ない上の子と、そのときまだこの世にいなかった下の子に話す。
現場にいなくても、その日に感じた私の気持ちを、彼女たちに伝える。
少しでも。
それも意味があるのではないか、と思って。
そして。
亡くなった人の冥福と、今、生きている命を同時に祈る。
私は、1歳の娘といつもとおりの慌しい午前中を過ごし、
地震を全くしらないまま、TVをつけて。
あの、映像を、観た。
「どこかの国の戦争?」
そう、思った。
あちこちに火の手の上がる恐ろしい画面。
それが、神戸だった。
電話をかけたらいけない、と理性では判っていても、じっとしていられなくて受話器を握り、そのうちに実家から「無事だった!」と連絡が入って気が抜けて・・・
あれから12年。
記憶には当然ない上の子と、そのときまだこの世にいなかった下の子に話す。
現場にいなくても、その日に感じた私の気持ちを、彼女たちに伝える。
少しでも。
それも意味があるのではないか、と思って。
そして。
亡くなった人の冥福と、今、生きている命を同時に祈る。
けれど被災された方たちにとってはきっと、まだ12年、でもあるんでしょうね。
あの日私の住む市の震度は4でした。その揺れの震源地が遥か関西と知って地震の規模の大きさに驚いたものです。
芦屋と明石に親戚が三軒ありますが、芦屋の親戚の家屋が半壊、事務所(三宮)が全壊したものの、幸いみんな怪我は軽く済みました。
犠牲を忘れないために、また当たり前の日常が実は当たり前ではなく文字通り「有難い」ものなのだと認識するために、子どもたちに語り継ぎたいですね。
狭い部屋で娘とかみさんと私の3人で寝ておりましたが、すごい揺れで思わずタンスが倒れないように抑えたのを覚えています。
後輩の彼女が神戸にいて、あの当時では珍しい会社の業務用携帯電話を借用して救助に向かったというのもありました。
はやいもので12年も経つんですね
日頃の備えを大切にしています
早いものです。
大きな都市だっただけに、関東圏に住む人たちでも「誰かしらがいたのよね」って話はよく耳にして。
だから、当事者ではないけれど、そのときに感じたものは伝えられるのかな、と思って、子ども達に話しました。やっぱり、忘れちゃいかん事だとおもうので。
「有難い」
これを忘れないこと。とても大切ですよね。
日々、目の前のデキゴトに四苦八苦していますけれど・・。
ほんとに大きな災害。怖い日でしたよね。
日頃の備え。
寝る部屋に家具を置かない、っていうことを、ずっとずっとしてきたんだけれど、ここ数年でまた家具を置かざるを得なくなっている我が家。
一応地震用のストッパーとか使ってますけれど、点検もしなくちゃいけないな。