「――もしもし」と、言ったアマガエルは、意外なことに、多少驚いていた。
電話に出たのは、姉弟の母親だった。今日は、近所の工務店に、パートで働きに行っていると思っていた。留守電にメッセージを残しておくつもりだったが、自宅に帰っていたとは、意外だった。
“なにか、ご用でしょうか”
と、心なしか、母親の声は、不機嫌そうだった。
「どうも。以前お話を聞きに行った、加藤です。カトウタツオです」
“はい。覚えておりますが、なにかご用でしょうか”
と、本当に覚えているのか、どこか迷惑そうな口調だったが、アマガエルは言った。
「すみません。ちょっと聞きたいことがありまして。――さっそくですけど、もしかして、病院の先生のほかにも、誰かに姉弟のことを相談されたことはないですか?」
“いいえ。お医者さんだけですが――”
「んー」と、アマガエルは困ったように言った。「いいんですよ。なにか問題があるわけじゃないんで。ただ、信仰的なものに相談されたことがあるなら、それも報告書に書かなければならないんで」
“――いえ、そんな迷信的なことは、なにも”
「外国人にも、会ったことはない、ですか――」
“――そんな。なにも相談なんて、していませんが”
と、母親は言うと、ちょっと今いそがしいので――と、アマガエルがなにか言う前に、電話を切った。
携帯電話をポケットにしまったアマガエルは、母親の反応から、少女を狙っているのは、外国人だと、確信していた。
一体、誰だったのか。痛いほどヒリヒリと感じていた視線は、消えていた。
通り過ぎていった車は何台もあったが、振り返った後ろには、誰の姿もなかった。
「嫌な感じですね」と、アマガエルは、ため息をついた。
しかし、アマガエルには、困っている様子はなかった。一度とらえてしまえば、それが姿であれ声であれ、今回のように視線だけであれ、イメージした記憶がはっきりしている限り、近づこうという意志を働かせるだけで、瞬く間に移動することができた。
それは、アマガエルにしかできなかった。
隠れ家にしている土蔵に、初めて入ったときだった。土蔵の中に、なにがあるんだろう、と少しイメージを強く持っただけで、気がつけば、土蔵の中に立っているのがわかった。
はじめは、誰もができることだ、と思っていた。
それから程なくして、めずらしく父親に、儀式で使う道具の入った箱を、土蔵から持ってくるよう、言いつけられた。
いつも土蔵の中に出入りしていたアマガエルは、いともやすやすと、言いつけられたお使いをこなしたが、箱を手にした父親は、驚いて目を丸くしていた。
「おまえ、よく一人で、あの扉を開けられたな」
驚いたのは、アマガエルも同じだった。硬く、錆びついた扉を開けなければ、土蔵の中には入れない、などとは、思ってもいなかった。
すぐに疑問が思い浮かび、父親にいろいろと聞きたかったが、納得できる答えを聞く前に、こぶができるほど痛いゲンコツが飛んでくるのが怖くて、扉を開けなければならない理由については、結局、聞かずじまいだった。
――――
アマガエルがやって来たのは、駅から少し離れた、静かな場所だった。
いろいろな会社の名前が見える、事務所の入った建物が並ぶ通りだった。
仕事が終わる時間までは、まだ早いからだろう。人の姿は、ほとんどなかった。
目の前にあるのは、マンションの出入り口の隣にある、窓を模した絵だった。
この場所で、誰かが姿を消したところは、もちろん見ていなかった。
しかし、空間に関する感覚が、人と少し違うからだろうか、追いかけている相手が、普通の人間とは、違うからだろうか――残像のような人影が、その場に漂っているのがわかった。
「壁、だよね――」
アマガエルは、扉の絵を確かめるように、手で触れて確かめた。
と、不意にマンションの自動扉が開き、郵便配達の女性が出てきて、アマガエルを見ると、不思議そうな顔をして、通り過ぎていった。
「――」
と、アマガエルは壁を向いたまま、扉の絵の向こう側に、移動した。
「そりゃ、そうだよな……」
まばたきをして見ると、そこは、エレベーター前のスペースだった。
振り返ると、なにも飾り気のない、壁があるばかりだった。
首を傾げながら、アマガエルは出入り口の自動ドアを抜けて、また、壁に書かれた扉の絵の前に立った。
「前」
「次」
電話に出たのは、姉弟の母親だった。今日は、近所の工務店に、パートで働きに行っていると思っていた。留守電にメッセージを残しておくつもりだったが、自宅に帰っていたとは、意外だった。
“なにか、ご用でしょうか”
と、心なしか、母親の声は、不機嫌そうだった。
「どうも。以前お話を聞きに行った、加藤です。カトウタツオです」
“はい。覚えておりますが、なにかご用でしょうか”
と、本当に覚えているのか、どこか迷惑そうな口調だったが、アマガエルは言った。
「すみません。ちょっと聞きたいことがありまして。――さっそくですけど、もしかして、病院の先生のほかにも、誰かに姉弟のことを相談されたことはないですか?」
“いいえ。お医者さんだけですが――”
「んー」と、アマガエルは困ったように言った。「いいんですよ。なにか問題があるわけじゃないんで。ただ、信仰的なものに相談されたことがあるなら、それも報告書に書かなければならないんで」
“――いえ、そんな迷信的なことは、なにも”
「外国人にも、会ったことはない、ですか――」
“――そんな。なにも相談なんて、していませんが”
と、母親は言うと、ちょっと今いそがしいので――と、アマガエルがなにか言う前に、電話を切った。
携帯電話をポケットにしまったアマガエルは、母親の反応から、少女を狙っているのは、外国人だと、確信していた。
一体、誰だったのか。痛いほどヒリヒリと感じていた視線は、消えていた。
通り過ぎていった車は何台もあったが、振り返った後ろには、誰の姿もなかった。
「嫌な感じですね」と、アマガエルは、ため息をついた。
しかし、アマガエルには、困っている様子はなかった。一度とらえてしまえば、それが姿であれ声であれ、今回のように視線だけであれ、イメージした記憶がはっきりしている限り、近づこうという意志を働かせるだけで、瞬く間に移動することができた。
それは、アマガエルにしかできなかった。
隠れ家にしている土蔵に、初めて入ったときだった。土蔵の中に、なにがあるんだろう、と少しイメージを強く持っただけで、気がつけば、土蔵の中に立っているのがわかった。
はじめは、誰もができることだ、と思っていた。
それから程なくして、めずらしく父親に、儀式で使う道具の入った箱を、土蔵から持ってくるよう、言いつけられた。
いつも土蔵の中に出入りしていたアマガエルは、いともやすやすと、言いつけられたお使いをこなしたが、箱を手にした父親は、驚いて目を丸くしていた。
「おまえ、よく一人で、あの扉を開けられたな」
驚いたのは、アマガエルも同じだった。硬く、錆びついた扉を開けなければ、土蔵の中には入れない、などとは、思ってもいなかった。
すぐに疑問が思い浮かび、父親にいろいろと聞きたかったが、納得できる答えを聞く前に、こぶができるほど痛いゲンコツが飛んでくるのが怖くて、扉を開けなければならない理由については、結局、聞かずじまいだった。
――――
アマガエルがやって来たのは、駅から少し離れた、静かな場所だった。
いろいろな会社の名前が見える、事務所の入った建物が並ぶ通りだった。
仕事が終わる時間までは、まだ早いからだろう。人の姿は、ほとんどなかった。
目の前にあるのは、マンションの出入り口の隣にある、窓を模した絵だった。
この場所で、誰かが姿を消したところは、もちろん見ていなかった。
しかし、空間に関する感覚が、人と少し違うからだろうか、追いかけている相手が、普通の人間とは、違うからだろうか――残像のような人影が、その場に漂っているのがわかった。
「壁、だよね――」
アマガエルは、扉の絵を確かめるように、手で触れて確かめた。
と、不意にマンションの自動扉が開き、郵便配達の女性が出てきて、アマガエルを見ると、不思議そうな顔をして、通り過ぎていった。
「――」
と、アマガエルは壁を向いたまま、扉の絵の向こう側に、移動した。
「そりゃ、そうだよな……」
まばたきをして見ると、そこは、エレベーター前のスペースだった。
振り返ると、なにも飾り気のない、壁があるばかりだった。
首を傾げながら、アマガエルは出入り口の自動ドアを抜けて、また、壁に書かれた扉の絵の前に立った。
「前」
「次」