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相模国と近国を歩く3.足柄峠を越える

2009-10-06 10:26:32 | Weblog
相模国と近国を歩く 3
           足柄峠を越える



 富士山をしみじみと眺めたいとき、足柄峠に登ります。秋が深まると空気が乾いて、富士山がきれいに見えます。天気図を見て晴れを確かめて出かけましょう。山の天気は変り安いので、午前中の早い時間に歩き始めるのをお奨めします。9時前には、御殿場線足柄駅を出立したい。旧道が車道で寸断されていて、車道に出るときは気をつけましょう。

歩く:JR足柄駅下車 踏み切りを渡る 案内に沿って頂上へ 約2時間

 足柄駅の辺りで建武2年(1335)12月12日、数万の鎌倉・足利尊氏軍と京都・朝廷軍(大将は新田義貞)が激突して、天下分け目の決戦となりました。尊氏が勝利して足利(室町)幕府が開かれる基となりました。太平記の里ともいわれ、石碑や古寺が在ります。

 足柄峠への道は古代の国道1号線ともいうべき東海道幹線で、奈良・平安の王朝時代に国司・受領が多くの供を連れて、相模や武蔵、常陸や下総などに赴任・帰京するときこの峠を越えました。任地であくどく貯え、山賊に狙われました。

 振り返れば、富士山が麓から頂上まで一望です。何度来ても「ああ、来てよかった」と思います。弁当も飲み物も持参しましょう。休みながら歩いても、2時間あれば峠に着きます。峠で御殿場から富士山を眺めながら、万葉歌でも口ずさみゆっくりと休みましょう。

 峠から東が、坂東です。続日本紀に「坂東九国」とあります。この場合は陸奥国も入れました。九州に向かう防人(さきもり)たちが国衙(役所)に集まり、足柄峠を越えて西に向かいました。難波港から筑紫へは、船で移動しました。

 足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹(いも)は清(さや)に見もかも(万葉集4423)
 
 峠の上で袖を振れば、恋しい妻にはっきり見えるかもしれないという意味なのでしょう。悲惨な長歌があって、「国問へど国をも告らず 家問へども実をも言わず」(万葉集1800)瀕死の若者が倒れていました。

 奈良の都や大寺など建設工事の労苦に耐えきれず、帰国する途中に銭を使い果たし空腹で倒れたのでしょう。数百年、いや千年以上も東海道幹線であったこの道の両側には、不幸にして倒れた多くの旅人が埋められているに違いありません。

 峠から坂東への道は、地蔵道のバス停まで2時間ぐらいで着きます。途中に万葉公園があります。この道を下っていると、坂田金時のことを思いだします。源頼光が国司の任を終えて京都に戻る途中、鉞(まさかり)を担いだ筋骨たくましい少年を見かけました。言葉をかけると、訛りがあるけれど返答が気にいりました。動きが涼やかな少年なので武芸と学問を教え育ててみたいと思い、「都へ一緒に来ぬか」と誘いました。

 「足柄(あしがら)」の語源は、「足軽(あしがる)」だといわれます。ここの杉から造った船は、水の上を滑るように早く走りました。大木を斧で倒して運びだすのに、大勢の男たちが働いていたのでしょう。少年たちも働いていたに違いありません。

 今昔物語に書かれた金時は、藤原道長が「この世をばわが世とぞ思ふ」と詠い、紫式部や清少納言などが生きた10世紀末ころの人でした。治安が乱れ、夜には群盗が跳梁しました。道長の邸宅でさえ襲われて放火され、砂金が盗まれました。政府高官や元国司の邸宅、大寺院など、腕のたつ侍が欲しい、それも数十人は揃えないと不安で眠れないほどでした。京の都では、信用できる警固人はいくらでも欲しいという有様でした。

 金時神社が数カ所あって、金太郎の郷はここ、などと言われます。金は豊かさの象徴だから、長男で金太郎と呼び名をつけたられた子どもはたくさん居たのでしょう。金時と頼光のことは、京に上って立身出世した少年と国司の話とすれば、古・国道1号線に沿ったこの辺りではよくある話だったはずです。「小さなからだに大きな望み、京へはるばるのぼり行く」と歌った「一寸法師」の話と似ているなあ、と思っているうちに地蔵堂に着きました。

 バス便が少ないので、声をかけて3~4人ほどタクシーに相乗りして関本駅まで出るのが、時間もおカネもお得です。関本駅から30分ほどでJR小田原駅に着きます。


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