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鎌倉の近国を歩く18 駿府の臨済寺

2014-12-12 07:45:48 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 18 
               駿府の臨済寺



                     (写真はクリックして見てください)


 徳川家康は源頼朝を敬慕し、鎌倉幕府の正史・吾妻鏡を座右の書として生涯読んでいた
そうです。駿府・今川氏の人質時代に、臨済寺で雪斉から教育を受けました。吾妻鏡を教
わり、読むようになったのでしょう。その臨済寺を訪ねてみました。

歩く:JR静岡駅 バス中原池ケ谷線で臨済寺前下車 

 山門に入り、幅の広い石段を登ると正面に質素な造りの本堂がありました。現在、鎌倉
の大寺院で目にする本堂と異なり、山村の質素なお寺の建物という感じでした。白と紺の
袴を着た数人の小僧さんたちが、竹箒で石段の掃除をしながら降りてゆきました。少年時代
の家康も同じような袴をつけ、竹箒を持って掃除をしていたのでしょう。

 案内書に「今川氏7代氏親の母・北川殿(北条早雲の妹)の屋敷がおかれていた。氏親
の5男・義元が家督争いに勝って、禅の兄弟子であり師匠でもあった太原崇孚雪斉(たい
げんそうふせっさい)を住持とした。雪斉は1548年、京都妙心寺から師の大休宗休を招
いて開山とし、自身は第2世となった」とあります。

 「武田信玄が駿河に侵攻したとき、臨済寺は兵火に見舞われた。家康の駿河侵攻でも寺
は罹災した。家康は駿河平定後に再建にとりかかった。入母屋造・柿葺きで桃山時代末期
の様式を備えている」とあります。

 本堂の横に家康が学んだ小堂がありました。家康の記憶通りに再建されたのでしょう。
観光客が一人も居ないので、境内は静寂です。時空を超えて、雪斉の謦咳(けいがい)が
聞こえてくるような気がしました。

 雪斉は今川の軍師として自ら兵を率いて出陣し、外交交渉でもその手腕を発揮しました。
「戦国時代、臨済宗の僧は仏事・坐禅だけでなく、軍事・外交も教えていた。武将の多く
は子どものころ禅寺、特に臨済宗の寺に預けられて育った」(小和田哲男)のだそうです。

 今川義元は雪斉亡きあと自ら兵を率いて出陣して、桶狭間で織田信長に討たれました。
その後、家康は信長と同盟を結んで東海道を固く守りました。信長の没後、小牧で豊臣秀吉
の大軍と互角に戦い、和を結びました。歴史の本に「雪斉から義元は仏事を、家康は軍事
を学んだのだろう」と皮肉っぽく書かれていたことを思い出しました。

 臨済宗本山・京都大徳寺の僧だった一休宗順は、「(僧たちが)禅録を看(み)ずして軍書
を読む」と書き残しています。彼らは孫子、武経七書、十八史略、三略、六韜、春秋左氏伝
など中国の軍書を熱心に読んでいました(小和田)。

 武略の他に、易による占いが重視されました。禅僧たちは戦いを前に筮竹(ぜいちく)、
算木、八卦、占星などで占って戦う日や時間を進言し、必勝間違いなしと告げて戦意を盛
り上げました。戦いが終わると敵・味方の区別なく負傷者の手当をして、死者を弔い怨霊
を封じました。戦場に散らばる遺物を集めて、家族のもとに届けました。

 鎌倉の建長寺や円覚寺など臨済宗の大寺には、2千人もの僧が学んでいたと記されてい
ます。禅僧たちは経を読み、坐禅して、掃除して、それで一日が終わり、その繰り返しの
毎日だと思っていました。彼らは各地の戦国大名や武将たちに招かれることを期待して、
修行のかたわら兵学と占いや戦場での死傷者の手当てなども学んでいたのです。

 臨済寺を訪ねてから、鎌倉の大寺を見る目が変わりました。