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相模国と近国を歩く4.三浦義村の墓

2009-12-23 12:58:21 | Weblog
相模国と近国を歩く 4
                  三浦義村の墓


 よく晴れて風の穏やか日、三浦半島の突端に三浦義村(よしむら)の墓と福寿寺を訪ねました。

歩く:京品急行の三浦海岸駅下車。京急バス剣崎行きで岩浦下車

 バス停から案内に沿って坂道を上がると、「三浦義村公之墓」が在りました。大正時代に再築されたのだそうです。墓の横に三浦市の説明看板がありました。

「三浦義村公は三浦一族六代の当主で大介義明の孫にあたり、七百年昔北条氏とともに鎌倉幕府を二分して活躍した武将として知られます。平安末期から戦国動乱の世まで四百五十年にわたり関東に勢威をふるった三浦一族の中でも義村公はもっとも隆盛をきわめた人であったといわれます。」

 途中を略して「生前、義村公は父祖伝来の地であるここ岩浦の里の要害をたのんで福寿寺を開基、菩提寺となし、没後菩提寺に近いこの台地に祀られました。」でお終いです。

 福寿寺の本堂には鞍と鐙(あぶみ)が在り、お寺に申し出ると見せてもらえます。義村は平家との戦いで伯父の佐原義連(よしつら)とともに、源義経に従って西に向かいました。鵯(ひよどり)越に坂を駈け降りて平家陣に攻め込んだとき、このような鞍に乗り鐙に足をかけていたのでしょうか。平家物語に義連の名がありますが、義村の名は見つかりません。

 建保1年(1213)5月北条義時と三浦一族の和田義盛が対立したとき、義村は起請文まで書いて義盛に味方すると約束をしながら土壇場で裏切りました。千葉胤綱から「三浦の犬は友を食らう」と多くの御家人の前で罵(ののし)られました。没年は不祥ですが、長生きして80歳は越えたようです。

 福寿寺の横から台地に上がると、三浦海岸から対岸の房総半島まで東京湾の入り口が一望です。三浦は海の武士で、沖を通る船を監視していたのでしょう。義村の父・義澄は伊豆の蛭カ小島に住む源頼朝を訪ね、決起を促しました。旗揚げの戦いで平家軍に敗れたとき、海を渡って房総に逃げるつもりだったのでしょう。結果は、畠山重忠に攻められて、三浦武士は多くの小船で対岸に向いました。その風景を想像しながら、台地の上から海と房総半島を眺めました。

歩く:剣崎バス停 剣崎灯台 江奈湾バス停 三浦海岸駅

 台地を海に向かって歩くと10分ほどでバス道路に出ます。その道をさらに10分ほど歩くと剣崎バス停に着きます。案内に従って灯台まで往復約1時間です。海の景色が素晴らしい。

 剣崎バス停に戻って、10分ほど坂を下ると剣崎小学校前に出ます。お店もあります。前は漁船が係留されている江奈湾です。浦賀水道から相模湾を通る船は、風が強く波が高い日に江奈湾の此処にひそんでいたのでしょう。三浦はこの辺りの湾を支配して、安全を保証して滞船料を徴収していたに違いありません。栄華をきわめた奥州藤原氏が京都に黄金や絹、海豹の皮などを運ぶ貨客船も、この湾で日和待ち、風待ちをしたこともあったのでしょう。

 バスを待つ間に、湾岸を散策して海を眺めるのもいいものです。景色がよいので、この海岸を何度も訪ねました。冬には多くの鴨を見ることがあります。どこかに渡る途中で、羽を休めているのでしょう。沖を黒潮が流れているせいか、真冬もさほど寒さを感じません。