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鎌倉近国を歩く23 常陸国府址・石岡

2016-02-10 10:45:54 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 23 常陸国府址・石岡
             



 古代に東海道の旅人は藤沢から鎌倉を通り走水へ抜けました。海を渡って上総
国府(市原市)、下総国府(市川市)を経て常陸国府(石岡市)通り、勿来(なこそ)
の関から陸奥国府(多賀城、仙台)に達しました。石岡を訪ねてみました。

 歩く:上野駅から常磐線で石岡駅下車

 上野駅を出てしばらく行くと、遠くに筑波山の二つの峰が見えました。どこま
でも続く平野の拡がりは驚きです。ヤマトタケル命(ミコト)は東国を制圧する
ため走水から小舟で上総に渡り、広大な景色を見ながら筑波山に向かって歩かれ
たのでしょう。

 石岡駅を出て案内図にしたがって10分ほど歩くと、石岡小学校の校庭に「常陸
国府跡」の石碑がありました。案内書に「国内の11郡を統括する役所があった。
校舎改築に伴い、校庭の発掘調査が実施され、国府の建物跡と見られる多くの柱穴
が見つかった」とあります。石碑のすぐ横にこじんまりとした歴史資料館があり、
展示説明でよくわかりました

 天慶2年(939)11月21日平将門は千人余で、ここ、常陸国府を包囲しました。
常陸国府側は3千人を擁して待ちかまえていました。合戦は将門軍の勝利でした。
千の兵が3千の兵に勝てるはずがなく、国府軍は本気で戦わなかったのでしょう。
 
 案内図を見ながら、常陸国分寺跡や同尼寺跡、常陸国総社宮などを見て回りま
した。鹿の子遺跡は古代常陸国の官営工房跡で、珍しい漆紙文書が多数発見された
そうです。東京からわずか1時間の旅で、千年昔の歴史の息吹を感じられる場所
に来られるのは嬉しいことです。

 帰ってから図書館で平将門について調べてみました。「将門の挙兵はのちの鎌倉
幕府構想につながっている」(茨城県の歴史 山川出版)とありました。将門の乱
は上総の平忠常の乱(1016)から、源頼朝の挙兵(1180)につながっていたのです。
底に流れる意識は「東国は東国」で、朝廷の一方的支配を嫌がりました。

 将門は常陸国府の戦いの後、「王種の苗裔(桓武天皇の六世子孫)」(将門記)と
称してと関東8カ国の結束を呼びかけました。しかし、2カ月後の農繁期に急襲
されて死去しました(940)。

 将門のころ京から東国に派遣されたのは受領(ずりょう)たちでした。受領は
4~6年で京に呼び戻され、税収成績を審査されました。次ぎの赴任先を指名さ
れるために、税を厳しく取り立てて農民たちから怨まれていました。税は京に運
ばれ神社仏閣の建設や貴族・僧侶などを養うために使われました。将門が3倍の
敵を難なく下したり、戦えば勝った理由がわかりました。

 武蔵国(東京)には神田神社をはじめ、筑土八幡社、鎧神社、鬼王神社、杉森
神社、鳥越神社など、将門を祀り伝説を伝える神社が多いのだそうです。なぜ、
将門ゆかりの神社が多いのか、それは農民たちが将門を祀り続け、江戸に幕府を
開いた徳川家康とその子孫たちがその祀りを見守っていたのだろうと思います。