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鎌倉の近国を歩く22 千葉の佐倉城址

2015-10-07 18:15:49 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 22 
             千葉の佐倉城址



                    (写真はクリックしてみてください)
                      
 小田原の紹太寺に春日局(つぼね)の供養塔と稲葉一族の墓があります。春日局(お福、
父は戦死して母の一族・稲葉氏の養女)は徳川三代将軍家光(~1651)の乳母で、家光から
絶大な信頼を寄せられました。彼女の夫は堀田正成。稲葉も堀田も三河譜代ではありませんが、
譜代以上に遇されました。江戸城の西の守・小田原城に稲葉を、東の守り・佐倉城に堀田を
配置しました。どちらも11万石。堀田の居城・佐倉を訪ねてみました。


  歩く:京成本線京成佐倉駅下車

 幕末、佐倉城主・堀田正睦(まさよし)は老中首座として、アメリカ総領事ハリスと
日米修好通商条約の締結を進めました。上洛して朝廷で懇切に説明しましたが、公卿たちは
あいまいな態度に終始しました。江戸に帰ると、井伊直弼(なおすけ)を大老として条約を
締結しました(1858)。そのことで明治以降の歴史家から、井伊も堀田もよくは言われません。

駅から西へ5分ほど歩くと城の入り口です。すぐに国立歴史民族博物館があり、その南側
が佐倉城址公園です。天守閣も城壁もありませんが、深い空堀など江戸時代の城跡をそのまま
残しています。明治6年に歩兵第2連隊の営所となり、先の大戦が終わるまで郷土部隊・佐倉連隊
の営所と訓練所になりました。

 案内書を見ながら城跡から東に歩くと、城下町の様子を残している小路がありました。
麻賀神社南方の鏑木小路には、3棟の質素な武家屋敷がありました。「旧河原住宅は300石以上の
藩士が住む大屋敷。旧但馬屋敷は中級藩士の住まい、旧武居家は100石未満の藩士が住んだ小屋敷」
だそうです。

 麻賀神社近くの交差点辺りが城下町の中心で、成田街道に沿って商店が並んでいました。
甚大寺は堀田氏の菩提寺で境内の奥に県史跡の堀田氏墓石が並びます。十一面観音菩薩像や佐倉城
の門の屋根だった瓦の鯱(しゃちほこ)などが置かれていました。

 さらに東に歩くと、旧堀田邸庭園や旧佐倉順天堂などがありました。どちらも、見逃せない旧跡です。
足の痛むのをガマンして歩き、よかったと思いました。

 徳川御三家の一つ水戸の斉昭(なりあき)は不平・不満の多い人で、開国を進める井伊や堀田の
悪口を言いふらしました。正睦は洋書好きで、座敷の床が抜け落ちるほどに積み上げました。
斉昭は正睦を蘭癖(らんペき)と呼び、彼のあだ名となりました。

 正睦の蘭癖が佐藤泰然を佐倉に移住する気にさせたのでしょう。泰然は長崎で医学を学んだ後、
城下に順天堂という塾を開き診療と医学教育を行いました。「西の長崎、東の佐倉」と言われ、
蘭方医学の最先端となりました。髪を後ろに束ねた若者たちが、洋書を片手に話し合いながら
城下町の小路を歩いていたに違いありません。

 帰りは丘を南に降りて、JRさくら駅に出るのをお奨めします。城下町が小丘陵の上に在ること
を実感します。このまま缶詰にして残したい町です。

 夕方に降りてきた丘をふり返って眺めていると、小柳るみ子の「私の城下町」の歌声が頭の
なかに響きました。