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鎌倉近郊を歩く20.ペリー上陸記念碑

2012-02-27 11:26:54 | Weblog
鎌倉近郊を歩く 20
             ペリー上陸記念碑


                      (写真はクリックしてみてください)

 ペリー上陸記念碑の前にたつと、どういうわけか、今は昔とつぶやいてしまいました。
現在、日米関係のニュースが毎日のようにテレビで放送されています。ここ、久里浜の砂
の上から日米関係が始まったことは、遠い昔のことのように思えるし、つい最近のことの
ようだという気もします。10世紀から11世紀ごろ書かれた今昔物語は「今は昔」で話が
始まります。今昔物語を書いた人も、同じような気持だったに違いありません。

歩く:JR横須賀線か京浜急行で久里浜駅下車 野比海岸行きバス 
   久里浜駅から海に向かって歩いて30分ほど。

 1853年7月14日(新暦)サスクエハナ、ミシシッピ、プリマス、サラトガの巨大な軍
艦4隻が、ここ砂浜の沖に碇を降ろしていました。「ペリーにしたがって、水兵・海兵隊
軍楽隊ら三百人が上陸した。サスクエハナからは、ペリーの出発をしらせる十三発の大砲
が発射された」(日本の歴史 小西四郎)

「日本人の総員はひじょうな数で、浦賀奉行はその数五千人といっていたが、それよりも
遙かに多いようであった。かれらは海岸一帯をめぐって斉列し、遙かの村はずれからはじ
まって、北側に同湾を劃している丘の険しい丘の坂までたっしていた」(ペルリ提督日本
遠征記)。黒船の噂が近隣に拡がり、多くの見物人がくりだしたそうです。

 ペリーはこの砂浜へ上陸して、大統領フィルモアからの国書を浦賀奉行の戸田・井戸両
氏に渡しました。「(海岸に急造された応接所で)、厳粛な雰囲気の中でおこなわれた」と
あります。大統領の手紙は長文でしたが、「友好・通商、石炭と食料との供給および吾が
難破民の保護が唯一の目的である」と結ばれていました。

 応接の場所は、上陸記念碑があるこの公園なのでしょう。広場の一角にペリー記念館が
あり、そのときの様子をパネルで見ることができます。ペリーの久里浜上陸や国書手交の
状況の写真もあります。

 記念碑の説明によると、ペリー艦隊乗組員のビアズリー退役海軍少将が来日して記念碑
がないないことを嘆いたことがきっかけで、明治34年(1901)米友好協会がたてたとあり
ます。碑文には伊藤博文の筆で「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」とあります。

 先の大戦中にアメリカ憎しで、この碑が引き倒されたとあるのには驚きました。敗戦後、
あわてて復元されました。われわれの先輩たちは、いったいどういう料簡だったのでしょ
う。国書受理によって長い鎖国政策が破られ、攘夷運動が盛んになりました。佐久間象山
は吉田松陰とともに黒船を見にきて開国を論じるようになり、京都で暗殺されました。

 海を眺めながら、碑を引き倒したことと、象山を暗殺したことは、根が繋がっているな
あと思いました。われわれの祖先は、数百年、いや数千年にわたって海で囲まれた日本列
島で生きてきました。外圧に対して強く反撥するものがDNAの遺伝子に刷り込まれてい
るようです。ペリーから国書を受け取ったことは屈辱であり、そして今も、その気分が残
っているのではないか、そんな気がしてなりません。