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鎌倉近郊を歩く35 藤沢片瀬の常立寺元使墓

2019-02-15 07:09:16 | Weblog
鎌倉近郊を歩く 35
        藤沢片瀬の常立寺元使墓





 1275年(建治1)9月鎌倉幕府(八代執権・北条時宗)は元(げん)の国使・杜世忠ら5人
を、鎌倉入り口の片瀬浜で斬首しました。その墓を常立寺に訪ねました。元国は成吉思汗
(チンギスカン)の子孫・フビライが中国につくった国です。

 歩く:大船駅で湘南モノレール。終点の江ノ島駅から北へ5分ほど歩く。

歴史の本に杜世忠(34)辞世の詩がありました。

 門を出でて妻子、寒衣を贈り
 問う、わが西行いく日にして帰る
 来る時、かりそめにも黄金の印を佩し
 蘇秦を見て機に下らざること莫れと
 
 墓前に立つと、「妻や子が栄達を夢見て時宣を失わず、無事に早く帰っていったのに」、
という嘆きの声が聞こえるような気がしました。

蒙古襲来に関して、鎌倉幕府の対応をまとめてみました。

1267年(文永4)高麗の使節、フビライの国書を持ち博多へ来る。国書に返事を出さず
1274年(文永11)元の大軍来襲・文永の役

 文永の役は、元の軍船が台風被害で退却したといわれてきました。襲来時が旧暦11月で、
そのころ大型台風が玄海灘を通ったとは考えられないそうです。最近の説では、元軍は陸上
戦闘で実力を示し、すぐに帰帆したのだろうといわれます。そして、元は国使を派遣し、
日本の態度に怒り大軍を出動させるに至りました。

1275年(建治1)元使5人、来日。鎌倉の西の境界で斬首
1279年(弘安2)来日の元使、博多で斬首

1281年(弘安4)元の大軍来襲、弘安の役。元の軍船は台風被害が甚大、退却 

 フビライが1271年に中国・北京を首都として元朝を開きました。1279年に南宋を滅ぼ
して中国全土を支配しました。各地で抵抗・反乱が相次ぎ、「蒙古軍が通ったあとは殺戮者
が数えきれず、州郡みな?儘となる」といわれました。

 中国の商人や僧たちが多数来日していました。北九州には南宋商人の租界ができていま
した。鎌倉の円覚寺や建長寺など、中国の高僧たちによって開かれました。それらの人々が、
蒙古軍の残虐さを伝え、恐怖心を煽ったのだろうと思われます。

 文永・弘安の役のあと、「日本は神国である」という意識が醸成されました。大正・昭和
初期にその意識が肥大化しました。先の太平洋戦争中には、「神風が吹いて、日本は負け
ない」と何度も聞かされました。

 2005年水中考古学者や研究者たちによって、対馬厳原や長崎県北松浦郡伊万里湾など
海底調査が行われました。蒙古(モンゴル)軍の「てつほう」や石弾丸などの兵器、食器・
甕・壺、船体の隔壁や外板、碇石、人骨などが引き揚げられました。文永・弘安の役につ
いて、従来の説に対して数々の異説が出されています。




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