鎌倉近国を歩く 29
平将門の墓
平安時代の中ごろ、関東の武士たちは自分たちのための政権を持ちたいと思うようにな
りました。その動きは北関東の平将門(まさかど、~940)に始まり、平忠常(~1031)を経て、
源頼朝が鎌倉幕府(1192)を開きました。武士政権は、江戸幕府が明治初年(1868)前まで続
きました。
千代田区大手町一丁目、まさに東京の中心にある将門塚を訪ねました。三井物産など
大企業のビルの谷間に在り、近くに読売本社ビルの看板も見られます。
歩く:東京駅西口(皇居側)を出て、噴水公園(和田倉門)前を北へ(皇居に向かって右側)
約300m
墓前にきれいな花がいけられていてお酒も数本捧げられていました。つい最近没した人
の墓前を見るようで、毎日それなりの人たちが参詣して清め献花して、維持しているのだ
ろうと思いました。案内の看板に、次ぎのような説明があります。
「将門は940年(天慶3)従兄弟の平貞盛と下野掾・藤原秀郷に討たれた。その将門の
首塚がこの地にあったという伝承は、鎌倉時代末期には成立していたらしい。徳川幕府は
大手門正面を整備するため、この地にあった寺社や民家を北の神田橋御門へ移した」
「このため将門の霊を祭った明神社は、以後、神田明神と呼ばれるようになった。神田
に移転後も、将門の首塚(円墳)は酒井邸内に残っていた。明治維新後、酒井屋敷は大蔵省
の敷地となり、関東大震災後、墳丘は整地されて供養塔が建てられた」
NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」を見た記憶があります。加藤剛が将門を演じていま
した。たいへんな人気番組だったようで、その加藤剛が最近亡くなったという記事を新聞
で読みました。
近く図書館の本棚を見ると、東京案内書が何冊もありました。その中から、将門首塚の
記事をひろってみました。
「伝説では、討たれた将門の首は平安京へ運ばれ、都大路で曝された。数日たつとその
首が東国に舞い戻った。その地は芝崎村といい、病気が流行し天変地変が起きて荒廃して
いた。そこで遊行二世真教上人が供養して近くに日輪寺を建て供養した」。
「明治時代になって大蔵省の敷地となった。1923年(大正12)に起こった関東大震災の
後、この塚を整地して大蔵省の建物を建てると役人に死者や病人が続出し、ついに落雷に
より庁舎が焼けた。そこで古碑の保存を図ることになったという。太平洋戦争後にも、
米軍が塚を整地しようとしたところ、ブルドーザーが横転して死者が出たと伝わる」。
近々、神田神社に参詣するつもりです。
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