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鎌倉を歩く18早雲の玉縄城跡

2013-06-21 07:05:07 | Weblog
鎌倉を歩く 18
          早雲の玉縄城跡


                          (写真はクリックして見てください)

 「大船が鎌倉市とは知らなかった」「そういう人がいるなあ」「今日は何処へゆく?」
「小田原の早雲がつくった玉縄(たまなわ)城跡へ行こう」「そうか、そんな城跡があるのか。
おまえにまかすよ」「運動不足なんだろう?」「そう、歩きたい」

歩く:JR大船駅西口 大船フラワーセンター 龍宝寺トンネル 龍宝寺
龍宝寺前の道路を横断 山側に向かって小道を歩く

 「早雲は嫌いだ」「どうして?」「イタチかキツネのような顔をしている」「あれは想像画だ」
「ほんと?」「大和絵の土佐光起が早雲没後150年も経って描いた」「そうなの?」
「伊勢の素浪人から成り上がった男というイメージで画いた」「あくどい男だったんだろう?」
「最近の研究で、京都足利将軍家に仕えた伊勢氏の分家で備中・井原(岡山県)の城主の
息子だったということがわかった。名前は伊勢盛時で室町幕府の役人だった」「そうか」
「あの肖像画を教科書に載せるのはおかしい」「そう怒るな」「神奈川県人として抗議する」
「なるほど」「岡山県の人も怒ってるだろう」「そうだなあ」

 「話しているうちに龍宝寺についた」「広い境内だなあ。保育園もある」「その横に新井白石
の墓碑という石がある」「ここか、よくわかったね」「近辺に白石の所領があったそうだ」
「つるんとした石だ」「案内書に、享保10年(1725)室鳩巣の撰文があったという、とある」
「風雨で摩滅したんだろう」

「玉縄北条氏供養塔は真新しい」「説明板に、築城5百年記念とある」「築城は1512年か、
なるほど」「案内書に、『天正3年(1575)玉縄城主4代目の北条氏勝が現在の地に菩提寺を
移築した。氏勝は秀吉軍に攻められて籠城し、死を覚悟したが家康の計らいで降伏した』
とある」「徳川から特別な保護を受けたから、これだけ広い境内が残ったんだろう」。

 「次ぎは、目的の玉縄城跡だ。注意して自動車道を横断して、あの山に行こう」「おや、
幟が山道に何本もたっている。建物も見える」「あれは、民家だ」「そう?山塞みたいだ」
「登ってみると、住宅街だ」「な~んだ、これ」「本丸跡は女学院内だ。許可がないと入れない」
「まったく、もう」「案内書に、『昭和38年女学院ができ、周囲も宅地造成がすすんだ。
遺構は大部分が破壊され、城の守護神として祭られた諏訪神社の壇のみが残されている。
土塁など残っていた城跡の面影は消えた』とある」。

「どうして、文化遺産を徹底的に破壊したのかなあ」「『北条滅亡後、家康は本多正信を
玉縄城主にして2万石を与えた。後に一国一城の制で廃城となった』とあるから、元の山野
に戻ったのだろう。昭和30年代の開発の波に呑み込まれた」「ここは見晴らしがよく、
城趾公園として残すべきだった」「今ならそう思うが、当時はそういう余裕がなかった」
「東京に通うにも便利な所だ。当時の開発担当者には住宅・学校しか頭になかった」
「フラワーセンターと城趾公園を併せれば、大きな観光名所となる」「住宅が余る時代に
なったから、そうした考えになる」

 「早雲は玉縄城をつくり、三浦半島に勢力をもつ三浦義同を滅ぼした。その後、北条一族
が玉縄城主になり、武蔵へ進出の拠点とした。上杉謙信も武田信玄も来たが、この城は
陥せなかった」「そう」「小田原北条二代・氏綱は鶴岡八幡宮の地を拡張して再建した」
「ほう」「工事の本部は玉縄城であった」「そう?」「後世、早雲の肖像画のイメージが災いして、
小田原北条の功績を無視しがちだ」「たいしたご高説だ」「それほどでもない」「喉が乾い
ただろう」「そういうことか」「そういうこと。駅まで歩いて帰り、久しぶりおまえと
一杯やりたい」「歩いて飲んで、長生きしよう」