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歴史探索を楽しむ

鎌倉近国を歩く31 武蔵国府跡

2021-03-24 10:05:05 | Weblog

鎌倉近国を歩く31 武蔵国府跡

歩く:新宿 京王線 府中駅下車

 

近くに、武蔵国府跡、大国魂神社などがあります。

武蔵国は大化改新(645)後に開かれました。

相模国(神奈川県)には、なぜか国府跡がありません。


鎌倉近郊を歩く37  

2020-10-26 08:49:54 | Weblog

鎌倉市近郊を歩く37

            橫浜市栄区の皇女御前神社

 

歩く:JR京浜東北線本郷駅下車、南に約10分歩く

   上流に向かって20分ほど歩くと天神橋、南の階段を上がる。

 祭神は葛原親王の皇妃・照玉姫。親王の父は平安京遷都(793年)した桓武天皇。

 葛原親王の孫・高見王が平氏姓を与えられて上総介になって、東国に平氏姓が繁栄

 する基が開かれました。


鎌倉近国を歩く30 武蔵の高麗神社

2020-05-16 09:27:51 | Weblog

鎌倉近国を歩く 30
                武蔵の高麗神社
                                                      写真はクリックして見てください


 神奈川県大磯町の高来神社に参詣して、元の名は高麗神社だったことを知りました。
明治になって改名したのだそうです。

 神奈川県史には、「伝説によると、若光は故国(高句麗)を去るや、一路東海を目指し、
遠江灘からさらに東して伊豆国を過ぎ相模国大磯の浜に着き、霊亀2年(716)武蔵高麗郡
に封じられるまでそこに居住した」とあります。

 朝日新聞(2016年10月1日)に埼玉県日高市の高麗(こま)神社の記事が出ていました。
古代、高句麗(こうくり、北朝鮮)から渡来した王族の一人・若光(じゃっこう)が、朝廷
から東国の新田開発を命じられて、同胞たちを統率して武蔵国高麗郡(埼玉県日高市、
鶴ケ島市の全域、飯能市などの周辺)を設置したという記事です。

 北朝鮮の高句麗(高麗)は中国・唐に攻められて滅亡しました(668年)。王族・若光と
多くの高句麗人たちが日本に亡命して、関東各地に住んだのでしょう。その地に高句麗神社
が開かれ、若光が祀られました。

 埼玉県日高市の高麗(こま)神社を訪ねてみました。

 歩く:JR茅ヶ崎駅から橋本駅へ。橋本駅から八王子駅を経て、高麗(こま)川駅で下車。

 車窓から相模川と大山を眺めていると、大磯に上陸した若光も同じ景色を眺めながら北上
したのだろうと思いました。大磯から八王子まで42キロ、八王子から高麗川駅まで36キロ
です。当時の人は健脚だから、2日か3日の行程で踏破したのでしょう。

 高麗川駅に降り案内板を見たあと20分ほど山に向かって歩くと、高麗神社の入り口に
着きました。見慣れないトーテムポールが二体立っていました。「天下大将軍」と「天下
女将軍」です。案内書に、「これは朝鮮に伝わる悪魔退治・災厄防除の守り神」とあります。

 入り口の看板に「高句麗の王族・高麗王若光を祀る神社である。高句麗人は中国大陸の
松花江流域に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸東北部から朝鮮半島の北部
を領有し、約700年君臨した」とありました。読んでいるうちに、北朝鮮の労働党委員長
金正恩の顔と肥満した体躯が脳裏に浮かびました。

 鳥居をくぐり本殿に向かいました。どこにも見られるような神社建築でした。北朝鮮や
韓国でも同じ神社建築なのか一度訪ねてみたいと思いながら、本殿前で日本風にお賽銭を
入れて拝礼しました。
                                                                          
 御参拝光栄録の看板に、平成29年天皇・皇后とあり、遡って浩宮や三笠宮など計18の
皇族方御参拝名が列挙されていました。明治天皇や大正天皇は飯能町や川越町で高麗氏系図
を御覧とあるので、高麗神社に参詣さたのだろうと思いました。
    
 なぜ、天皇をはじめとしてかくも多くの皇族方が御参詣になったのだろうかと考えなが
ら、山麓に向かって10分ほど歩くと聖天院に着きました。案内書に「高麗山勝楽寺と号
するが、聖天尊(歓喜天)を本尊としているので、聖天院の通称がある。若光の子・聖雲
と孫・弘仁が建立したもので、いわば若光の菩提寺といえる」とありました。

 山腹に位置する境内から、日高市が一望できます。高麗神社入り口の看板に「続日本紀
霊亀2年(716)東国7カ国に住む高麗人1799人が武蔵国高麗郷に移された」とあった記事
を思いだしました。

 景色を眺めていると、「彼らの先祖は騎馬民族だった」という看板記事の続きが頭に浮
かびました。大陸風の牧場を開き馬・牛・羊などを飼育し、乗馬術を広めたのでしょう。
関東武士といえば騎馬武者の姿が頭に浮かびます。その淵源の地ともいえそうです。

 東京都の歴史(山川出版社)をみると、「武蔵国は牛馬生産が盛んな土地であった。官牧
として檜前馬牧・神崎牛牧、勅使牧として石川・由比・小川・立野の4牧場があった。毎年
50疋の貢馬が定められていた」とありました。民営の牧場も多く在ったでしょう。

 「優れた養蚕・生糸・絹織物の技能をもち、後に八王子にかけて絹織物の産地となり江戸
時代末から明治にかけて輸出品の中心となった」という記事もありました。彼らは養蚕・
生糸・機織りの術にも優れ、秀でた絹織物を提供し、武蔵・相模から関東全域に、そして東北
や西国にもその術が広められたのでしょう。


鎌倉の近国を歩く29 平将門の墓

2019-12-13 07:45:32 | Weblog

  鎌倉近国を歩く 29
                 平将門の墓

 

 平安時代の中ごろ、関東の武士たちは自分たちのための政権を持ちたいと思うようにな
りました。その動きは北関東の平将門(まさかど、~940)に始まり、平忠常(~1031)を経て、
源頼朝が鎌倉幕府(1192)を開きました。武士政権は、江戸幕府が明治初年(1868)前まで続
きました。

 千代田区大手町一丁目、まさに東京の中心にある将門塚を訪ねました。三井物産など
大企業のビルの谷間に在り、近くに読売本社ビルの看板も見られます。

 歩く:東京駅西口(皇居側)を出て、噴水公園(和田倉門)前を北へ(皇居に向かって右側)
    約300m

 墓前にきれいな花がいけられていてお酒も数本捧げられていました。つい最近没した人
の墓前を見るようで、毎日それなりの人たちが参詣して清め献花して、維持しているのだ
ろうと思いました。案内の看板に、次ぎのような説明があります。

 「将門は940年(天慶3)従兄弟の平貞盛と下野掾・藤原秀郷に討たれた。その将門の
首塚がこの地にあったという伝承は、鎌倉時代末期には成立していたらしい。徳川幕府は
大手門正面を整備するため、この地にあった寺社や民家を北の神田橋御門へ移した」

 「このため将門の霊を祭った明神社は、以後、神田明神と呼ばれるようになった。神田
に移転後も、将門の首塚(円墳)は酒井邸内に残っていた。明治維新後、酒井屋敷は大蔵省
の敷地となり、関東大震災後、墳丘は整地されて供養塔が建てられた」

 NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」を見た記憶があります。加藤剛が将門を演じていま
した。たいへんな人気番組だったようで、その加藤剛が最近亡くなったという記事を新聞
で読みました。

 近く図書館の本棚を見ると、東京案内書が何冊もありました。その中から、将門首塚の
記事をひろってみました。

 「伝説では、討たれた将門の首は平安京へ運ばれ、都大路で曝された。数日たつとその
首が東国に舞い戻った。その地は芝崎村といい、病気が流行し天変地変が起きて荒廃して
いた。そこで遊行二世真教上人が供養して近くに日輪寺を建て供養した」。

 「明治時代になって大蔵省の敷地となった。1923年(大正12)に起こった関東大震災の
後、この塚を整地して大蔵省の建物を建てると役人に死者や病人が続出し、ついに落雷に
より庁舎が焼けた。そこで古碑の保存を図ることになったという。太平洋戦争後にも、
米軍が塚を整地しようとしたところ、ブルドーザーが横転して死者が出たと伝わる」。

近々、神田神社に参詣するつもりです。


鎌倉近郊を歩く 36 金沢の瀬戸神社と琵琶島弁天社 

2019-06-15 09:59:13 | Weblog




鎌倉近郊を歩く 36
       金沢の瀬戸神社と琵琶島神社



 金沢の瀬戸神社は源頼朝が創建し、妻の政子はここに琵琶島弁才天を勧請しました。六浦湊の中心に位置し、鎌倉・室町・江戸時代を通じて交通の要衝地として賑わいました。瀬戸神社と枇杷島神社の間を往来の激しい国道十六線が分けています。神社の境内を国道が通っている感じです。

歩く:京浜急行金沢八景駅。または、シーサイドライン金沢八景駅。

 瀬戸神社の主神は、港や海上交通の守り神である大山?命(おおやまつみのみこと)。伊豆の三島神社と同じ祭神です。神社は平潟湾にのぞみ、その辺りは古代より海と陸の交通要衝の地だったのでしょう。市が開かれ多くの人が行き交っていたに違いありません。

 頼朝は鎌倉入りして金沢に臨み、伊豆三島神社を思いだして新たに大山?命を祀る神社を創建したのでしょうか。あるいはすでに大山?命が祀られていた瀬戸神社の神殿を建て直し、寺域を拡げたのか、どちらなのでしょう。

 治承4年(1180)8月17日伊豆三島神社祭日の夜、頼朝は平氏の目代山木兼隆を襲撃して平氏打倒の兵をあげました。源平盛衰記には武士の数は85騎とあり、吾妻鏡には46騎とあります。それだけの武士で、全国政権の平氏に勝利できるとは思わなかったでしょう。追い詰められて窮鼠猫を噛む、いや窮鼠虎を噛む気持ちで立ち上がったと思います。

 建久3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開き、地方武士の棟梁たちが平伏する姿を眺めるとき、伊豆三島神社の祭りの夜のことを思いだしていたのでしょう。

 なぜ、瀬戸神社なのか、その名称が気になります。地名辞典に「河口が狭くなった所を瀬戸という」とあります。かっては野島や夏島と追浜の間に平潟湾が広がり、瀬戸内海のような景色だったのでしょう。

 「瀬戸の三島・六浦社といわれた神社が祀られていて、頼朝が伊豆三島神社を勧請したのだろう。六浦は陸浦・ムツウラによる」と案内書にあります。

 徒然草を書いた兼好法師は、「武蔵金沢という所にこもりけり。明け暮れ、ただ都の空のみ恋しくて」と書き遺しています。近くの上行寺に5、6年ほど居住していました。彼
の兄が称名寺の僧で、母も近くに住んでいました。都落ちして憂鬱そうな顔をした兼好法師が、海を眺めながらこの辺りを歩いていた姿が頭に浮かびます。


鎌倉近郊を歩く35 藤沢片瀬の常立寺元使墓

2019-02-15 07:09:16 | Weblog
鎌倉近郊を歩く 35
        藤沢片瀬の常立寺元使墓





 1275年(建治1)9月鎌倉幕府(八代執権・北条時宗)は元(げん)の国使・杜世忠ら5人
を、鎌倉入り口の片瀬浜で斬首しました。その墓を常立寺に訪ねました。元国は成吉思汗
(チンギスカン)の子孫・フビライが中国につくった国です。

 歩く:大船駅で湘南モノレール。終点の江ノ島駅から北へ5分ほど歩く。

歴史の本に杜世忠(34)辞世の詩がありました。

 門を出でて妻子、寒衣を贈り
 問う、わが西行いく日にして帰る
 来る時、かりそめにも黄金の印を佩し
 蘇秦を見て機に下らざること莫れと
 
 墓前に立つと、「妻や子が栄達を夢見て時宣を失わず、無事に早く帰っていったのに」、
という嘆きの声が聞こえるような気がしました。

蒙古襲来に関して、鎌倉幕府の対応をまとめてみました。

1267年(文永4)高麗の使節、フビライの国書を持ち博多へ来る。国書に返事を出さず
1274年(文永11)元の大軍来襲・文永の役

 文永の役は、元の軍船が台風被害で退却したといわれてきました。襲来時が旧暦11月で、
そのころ大型台風が玄海灘を通ったとは考えられないそうです。最近の説では、元軍は陸上
戦闘で実力を示し、すぐに帰帆したのだろうといわれます。そして、元は国使を派遣し、
日本の態度に怒り大軍を出動させるに至りました。

1275年(建治1)元使5人、来日。鎌倉の西の境界で斬首
1279年(弘安2)来日の元使、博多で斬首

1281年(弘安4)元の大軍来襲、弘安の役。元の軍船は台風被害が甚大、退却 

 フビライが1271年に中国・北京を首都として元朝を開きました。1279年に南宋を滅ぼ
して中国全土を支配しました。各地で抵抗・反乱が相次ぎ、「蒙古軍が通ったあとは殺戮者
が数えきれず、州郡みな?儘となる」といわれました。

 中国の商人や僧たちが多数来日していました。北九州には南宋商人の租界ができていま
した。鎌倉の円覚寺や建長寺など、中国の高僧たちによって開かれました。それらの人々が、
蒙古軍の残虐さを伝え、恐怖心を煽ったのだろうと思われます。

 文永・弘安の役のあと、「日本は神国である」という意識が醸成されました。大正・昭和
初期にその意識が肥大化しました。先の太平洋戦争中には、「神風が吹いて、日本は負け
ない」と何度も聞かされました。

 2005年水中考古学者や研究者たちによって、対馬厳原や長崎県北松浦郡伊万里湾など
海底調査が行われました。蒙古(モンゴル)軍の「てつほう」や石弾丸などの兵器、食器・
甕・壺、船体の隔壁や外板、碇石、人骨などが引き揚げられました。文永・弘安の役につ
いて、従来の説に対して数々の異説が出されています。



鎌倉の近国を歩く 28 皇居東御苑の富士見櫓

2018-10-14 10:13:42 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 28
            皇居東御苑の富士見櫓





 日本の首都として東京(江戸)ほどの適地は、他にありません。鎌倉に住んだ太田道灌が
江戸に出城を設けました。その跡を徳川家康が受け継ぎました。そして明治になって東京
となりました。東京駅を出て高層のビルの向こうに皇居を眺める度に、家康の慧眼には
敬服します。道灌は江戸城を好み、次ぎの歌を詠んだといわれます。

 わが庵(いお)は松原続き海近く富士の高嶺(たかね)を軒端(のきば)にぞ見る

 江戸城の富士見櫓から富士山を見たいと思い、晴れた日に皇居東御苑に出かけました。
東京駅で下車して、江戸城大手門(御苑入口)から中に進みました。芝生の大広場があり、
天主台石垣が見えました。

 案内板に天守閣と本丸御殿の絵図が描かれていました。天守閣跡に上がった後、標識を
見ながら松の廊下跡から富士見櫓の下まで行きました。櫓の中に入れず、櫓の横から西を
向きましたが、その日は昼過ぎから曇って富士山が見えませんでした。

 なぜ、家康は道灌が築いた江戸城趾を選んだのか、いろいろな説があります。北条攻め
で家康は豊臣秀吉と共に落城間近の小田原城を眼下に眺めながら、「まもなく城は落ちる。
北条の地をそなたに進ぜよう。関東はどこに住まわれる?」と聞かれたそうです。学問好
きの家康は道灌の歌を思い出し「江戸がよろしいかと…」と答え、秀吉が何度もうなずく
姿が浮かびます。

 案内書に、「天守閣は明暦3年(1657)の江戸大火で消失以後再建されず、富士見櫓が
本丸の中心となった。関東大震災(1923)で大破したが旧状に復元され現在に至っている。
櫓下の石垣の造りは慶長から元和の特徴を示している。家康時代の石垣として間違いない」
とあります。

 なぜ富士見櫓という名なのか説明文がありませんが、たぶん、その地が江戸城内から
富士を仰ぐに絶好の場所だったのでしょう。

 家康は富士山を特別な感慨を持って眺めていたに違いありません。少年時代に今川の
人質として駿府(静岡市)に送られられました。富士山を見ながら、辛い毎日を耐えて成長
したのでしょう。秀吉の気持ちを忖度して、富士山が見える江戸城趾に本拠を移しました。

 慶長10年(1605)家康は将軍職を秀忠にゆずり、2年後に駿府に帰りました。その地で
10年ほど暮らして75歳で亡くなりました。「家康がなぜ江戸の地を選んだかって?富士
山が好きだったんだよ。御殿場に別邸を造らせたりして…いくら家康が偉いといって、
大江戸から今の東京を予想したとは思えないなあ」という人がいて、富士山を見るたびに、
案外それがほんとうの理由ではないかと思うようになりました。

鎌倉近国を歩く27 山北町の河村城趾

2018-06-14 10:50:17 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 27
             山北町の河村城趾



                   (写真はクリックして見てください)

 吾妻鏡建久元年(1190)八月十六日の条にある、河村義秀が鶴岡八幡宮の神事・流鏑馬で
妙技を披露して源頼朝を感銘させ石橋山での旗挙げ合戦の敵対を許された記事が気がかり
になっていました。好天の日、神奈川県山北町の河村城趾を訪ねました。

 歩く:御殿場線山北駅下車 駅の南側の山に向かって歩く。約40分で頂上の城趾。

 静かな山北町を案内の矢印に沿って歩き、やがて険しい山道にさしかかりました。登り
口に地図が書かれた看板があり、「この地は城山と呼ばれ、北を旧皆瀬川、南を酒匂川に
よって周辺山地と分断された自然の要害。標高は225mで酒匂川との比高は130m」とがあ
りました。

 山道を登り終わると、そこは平らな城趾が拡がっていました。入り口に山北町の詳細な
城史碑があり、その要旨は次ぎのようです。

 「足柄平野の辺部には松田城や沼田城など多くの城趾があるが、なかでも河村城は甲斐、
駿河から足柄平野に至る交通の要衝に位置している」「平安時代末ごろ秀郷流藤原氏の
一族・波多野達義の二男・河村秀高が築城したと伝えられる」

 「秀高の子が義秀。源頼朝の石橋山挙兵の際平氏に属したため領地を没収されるが、
鎌倉で流鏑馬の妙技により本領河村郷に復帰できた。町指定無形文化財・宝生神社流鏑馬
はこれによるといわれる」

 「河村城は南北朝時代に足利と新田の争い、戦国時代に小田原北条と武田の争いで激しい
攻防戦があり、1590年秀吉の小田原征伐で落城し廃城となった」

 案内図を見ながら歩くと城趾は三つの尾根からなり、深い堀切に立派な木橋が架けられ
ていました。橋を渡って東の浅間山に連なる尾根に進むと、足柄平野が一望できました。
橋に戻って南尾根の南端山道(大手道)を下山しました。

 数日前に大雨が降ったせいか、酒匂川は激しい水流でした。川に沿ってなだらかな道を
登ってゆくと「酒水の滝」が目前にありました。水量が豊かで、見上げるような高さから
流れ落ちる滝は見事でした。

 帰って図書館で、「神奈川県の城・朝日新聞横浜支局編」を目にすることができました。
「河村城は平安末期に創築され戦国末期までの五百年余にわたり、使われた。南北朝時代
には新田氏側、つまり南朝軍に投じて足利尊氏の討伐軍に攻撃されることになった。松田氏、
河村氏、酒匂氏など六千余兵は籠城して、刀折れ矢尽きるまで戦い抜いて、2年後遂に
落城した」とあります。

 河村城は交通の要衝に位置していて、上杉、大森、武田、小田原北条、など南北朝時代
から戦国時代まで城の攻防戰が繰り返されて多くの血がながされました。豊臣秀吉の小田原
の役をもって廃城になりました。

 歩いて来た山道には多くの血が吸い込まれているんだなあと思いました。


鎌倉の近国を歩く26 小田原城の大堀切

2018-02-08 07:05:20 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 26
            小田原城の大堀切



 雑誌で小田原城の大堀切の写真を見たことを思いだして訪ねてみました。

歩く:JR小田原駅 小田原城 城の西側の道を北へ JR陸橋を渡る さらに北へ  

 威風堂々とした小田原城天守閣を眺めた後、西側の道へ出て北に歩きました。JR陸橋
を渡って緩やかな坂道を登って行くと、右側に大堀切の入り口がありました。

 小田原市の説明看板に「現在残っている小田原城の外郭・土塁の中でも、小田原北条時代
の姿を最もよく留めているところである」とありました。堀切の入り口は歩道とつながっ
ていて、散歩の人たちと行き交いました。

 細道の両側は急勾配で、首を傾けて見上げる高さです。歩いている人が小さくみえました。
築城された4百年昔は、もっと高くて急勾配だったのだろと思いました。

 豊臣秀吉は城攻めが得意で因幡・鳥取城の干殺しや備中・高松城の水攻めがよく知られ
ています。相模・小田原城をどんな手段で開城させたのか調べてみました。

 天正18年(1590)豊臣方は伊豆中山城を落とすと、4月相模に進軍して小田原城を囲み
ました。城に籠もった北条勢3万5千人に対して、包囲した豊臣勢は23万人でした。

 小田原城包囲から開城まで3カ月余、激しい攻防戦が繰り広げられたのかと思っていたら、
ほとんど戦闘がなかったということです。城内に食料が尽きたという記事もみつかりません。

 最近の説は、「惣無事令」(そうぶじれい)の平和攻勢だそうです。秀吉は関西と九州の
戦国大名たちを武力で降すと、惣無事令をだして平和解決を呼びかけました。紛争の解決
を武力でなく裁判によって裁定し解決するとして、戦争の即時停止を求めました。「なお
も戦いを継続すれば私戦とみなし、裁定して討伐する」と伝えました。

 最上、相馬、岩城などは戦いをやめ、秀吉のもとに伺候して臣従しました。出羽では安東
と南部が争っていましたが、戦いをやめました。伊達正宗は芦名と佐竹に大勝し南奥羽を
制覇しましたが、6月9日秀吉の前に白装束で現れて跪き許されました。

 籠城側に情報が伝わり、開城決定まで連日会議が開かれました。「小田原評定」という
言葉がよく知られています。国語辞典に「豊臣秀吉が小田原城を攻囲した時、小田原城中
で北条氏直と腹心らの評定が長びいて決しなかったことから、長びいてなかなか決定しな
い相談。小田原談合ともいう」とあります。

 7月5日北条は開城して、早雲から五代氏直まで約百年の歴史を閉じました。
氏政(4代)・氏照(氏直の弟)と重臣の松田憲秀・大道寺政繁の4人が切腹させられました。
氏直は家康の娘婿で、助命されて高野山に追放されました。

 東海道線で小田原を通る度に、そういうことだったのかと、車窓から城を眺めます。


鎌倉近国を歩く25 

2017-10-12 10:06:40 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 25
                鹿島神宮


      写真はクリックしてみてください。

 大化改新(645)を企画した藤原(中臣)鎌足は、鹿島神宮の神主の子といわれます。源頼朝
は鹿島神宮に参詣して、社領を寄進しました。爾来、鹿島神宮は関東の武人たちから厚く
崇敬されました。万葉集にも歌われた鹿島神宮を参詣して、その歴史を調べてみました。

歩く:JR成田線で佐原下車。鹿島線に乗り変えて鹿島神宮駅下車

 鎌倉の神社・仏閣のにぎにぎしさがなく、静かな森の中に本殿、楼門、奧宮、仮殿など
がひっそりとたたずんでいました。案内書に、「近世初め、徳川将軍家が朱印2000石を寄進
して諸社殿を復興し、社観を整えた。国の重要文化財に指定されている」とあります。
 
 祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)です。出雲大社に祭られた大国主命(おお
くにぬしのみこと)が、武甕槌大神に強要されて葦原中国(あしはらのなかくに)を献上し
た古事記か日本書紀の記事を思いだしました。出雲大社と同じころに創建された神社なの
でしょう。万葉集の一句と注が記されていました。

「霰(あられ)降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍士(すめらみくさ)に我は来りしを
 
 奈良時代、九州に向かう防人(さきもり)たちは鹿島の神に武運を祈り、ここから出立した。
これを鹿島立ちといった」。

 鹿島神宮を参拝して帰り、図書館で万葉集を開いてその注をみました。
「万葉集4370。霰降りは鹿島の枕詞。天平勝宝5年(753)大伴家持は防人検校の任務で
難波に赴き、九州に向かう東国出身者から歌を集めた」

 歴史事典に「房総から難波まで陸路で約15日」とあります。万葉集4372は長歌で
「足柄のみ坂賜(たまわ)りかえり見ず我はこえ行く荒し男も(以下略)」。「足柄の神の坂を
通していただいた我々は勇んで」という意味だそうで、およその行程が推察されます。

 九州筑紫へ旅たつ若者たちは鹿島神宮に集まりお祓いを受け、家族と涙の別れをしたの
でしょう。そして足柄峠を越えて難波に向かいました。1000年以上がたった今、スマホ
を片手に境内を歩く人たち。東京駅から社殿前に立つまで約2時間。また、1000年が経つと、
どういう人たちが、どんなかっこうで歩いているのだろうか、と頭をよぎりました。