鎌倉近国を歩く31 武蔵国府跡
歩く:新宿 京王線 府中駅下車
近くに、武蔵国府跡、大国魂神社などがあります。
武蔵国は大化改新(645)後に開かれました。
相模国(神奈川県)には、なぜか国府跡がありません。
鎌倉近国を歩く31 武蔵国府跡
歩く:新宿 京王線 府中駅下車
近くに、武蔵国府跡、大国魂神社などがあります。
武蔵国は大化改新(645)後に開かれました。
相模国(神奈川県)には、なぜか国府跡がありません。
鎌倉市近郊を歩く37
橫浜市栄区の皇女御前神社
歩く:JR京浜東北線本郷駅下車、南に約10分歩く
上流に向かって20分ほど歩くと天神橋、南の階段を上がる。
祭神は葛原親王の皇妃・照玉姫。親王の父は平安京遷都(793年)した桓武天皇。
葛原親王の孫・高見王が平氏姓を与えられて上総介になって、東国に平氏姓が繁栄
する基が開かれました。
鎌倉近国を歩く 30
武蔵の高麗神社
写真はクリックして見てください
神奈川県大磯町の高来神社に参詣して、元の名は高麗神社だったことを知りました。
明治になって改名したのだそうです。
神奈川県史には、「伝説によると、若光は故国(高句麗)を去るや、一路東海を目指し、
遠江灘からさらに東して伊豆国を過ぎ相模国大磯の浜に着き、霊亀2年(716)武蔵高麗郡
に封じられるまでそこに居住した」とあります。
朝日新聞(2016年10月1日)に埼玉県日高市の高麗(こま)神社の記事が出ていました。
古代、高句麗(こうくり、北朝鮮)から渡来した王族の一人・若光(じゃっこう)が、朝廷
から東国の新田開発を命じられて、同胞たちを統率して武蔵国高麗郡(埼玉県日高市、
鶴ケ島市の全域、飯能市などの周辺)を設置したという記事です。
北朝鮮の高句麗(高麗)は中国・唐に攻められて滅亡しました(668年)。王族・若光と
多くの高句麗人たちが日本に亡命して、関東各地に住んだのでしょう。その地に高句麗神社
が開かれ、若光が祀られました。
埼玉県日高市の高麗(こま)神社を訪ねてみました。
歩く:JR茅ヶ崎駅から橋本駅へ。橋本駅から八王子駅を経て、高麗(こま)川駅で下車。
車窓から相模川と大山を眺めていると、大磯に上陸した若光も同じ景色を眺めながら北上
したのだろうと思いました。大磯から八王子まで42キロ、八王子から高麗川駅まで36キロ
です。当時の人は健脚だから、2日か3日の行程で踏破したのでしょう。
高麗川駅に降り案内板を見たあと20分ほど山に向かって歩くと、高麗神社の入り口に
着きました。見慣れないトーテムポールが二体立っていました。「天下大将軍」と「天下
女将軍」です。案内書に、「これは朝鮮に伝わる悪魔退治・災厄防除の守り神」とあります。
入り口の看板に「高句麗の王族・高麗王若光を祀る神社である。高句麗人は中国大陸の
松花江流域に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸東北部から朝鮮半島の北部
を領有し、約700年君臨した」とありました。読んでいるうちに、北朝鮮の労働党委員長
金正恩の顔と肥満した体躯が脳裏に浮かびました。
鳥居をくぐり本殿に向かいました。どこにも見られるような神社建築でした。北朝鮮や
韓国でも同じ神社建築なのか一度訪ねてみたいと思いながら、本殿前で日本風にお賽銭を
入れて拝礼しました。
御参拝光栄録の看板に、平成29年天皇・皇后とあり、遡って浩宮や三笠宮など計18の
皇族方御参拝名が列挙されていました。明治天皇や大正天皇は飯能町や川越町で高麗氏系図
を御覧とあるので、高麗神社に参詣さたのだろうと思いました。
なぜ、天皇をはじめとしてかくも多くの皇族方が御参詣になったのだろうかと考えなが
ら、山麓に向かって10分ほど歩くと聖天院に着きました。案内書に「高麗山勝楽寺と号
するが、聖天尊(歓喜天)を本尊としているので、聖天院の通称がある。若光の子・聖雲
と孫・弘仁が建立したもので、いわば若光の菩提寺といえる」とありました。
山腹に位置する境内から、日高市が一望できます。高麗神社入り口の看板に「続日本紀
霊亀2年(716)東国7カ国に住む高麗人1799人が武蔵国高麗郷に移された」とあった記事
を思いだしました。
景色を眺めていると、「彼らの先祖は騎馬民族だった」という看板記事の続きが頭に浮
かびました。大陸風の牧場を開き馬・牛・羊などを飼育し、乗馬術を広めたのでしょう。
関東武士といえば騎馬武者の姿が頭に浮かびます。その淵源の地ともいえそうです。
東京都の歴史(山川出版社)をみると、「武蔵国は牛馬生産が盛んな土地であった。官牧
として檜前馬牧・神崎牛牧、勅使牧として石川・由比・小川・立野の4牧場があった。毎年
50疋の貢馬が定められていた」とありました。民営の牧場も多く在ったでしょう。
「優れた養蚕・生糸・絹織物の技能をもち、後に八王子にかけて絹織物の産地となり江戸
時代末から明治にかけて輸出品の中心となった」という記事もありました。彼らは養蚕・
生糸・機織りの術にも優れ、秀でた絹織物を提供し、武蔵・相模から関東全域に、そして東北
や西国にもその術が広められたのでしょう。
鎌倉近国を歩く 29
平将門の墓
平安時代の中ごろ、関東の武士たちは自分たちのための政権を持ちたいと思うようにな
りました。その動きは北関東の平将門(まさかど、~940)に始まり、平忠常(~1031)を経て、
源頼朝が鎌倉幕府(1192)を開きました。武士政権は、江戸幕府が明治初年(1868)前まで続
きました。
千代田区大手町一丁目、まさに東京の中心にある将門塚を訪ねました。三井物産など
大企業のビルの谷間に在り、近くに読売本社ビルの看板も見られます。
歩く:東京駅西口(皇居側)を出て、噴水公園(和田倉門)前を北へ(皇居に向かって右側)
約300m
墓前にきれいな花がいけられていてお酒も数本捧げられていました。つい最近没した人
の墓前を見るようで、毎日それなりの人たちが参詣して清め献花して、維持しているのだ
ろうと思いました。案内の看板に、次ぎのような説明があります。
「将門は940年(天慶3)従兄弟の平貞盛と下野掾・藤原秀郷に討たれた。その将門の
首塚がこの地にあったという伝承は、鎌倉時代末期には成立していたらしい。徳川幕府は
大手門正面を整備するため、この地にあった寺社や民家を北の神田橋御門へ移した」
「このため将門の霊を祭った明神社は、以後、神田明神と呼ばれるようになった。神田
に移転後も、将門の首塚(円墳)は酒井邸内に残っていた。明治維新後、酒井屋敷は大蔵省
の敷地となり、関東大震災後、墳丘は整地されて供養塔が建てられた」
NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」を見た記憶があります。加藤剛が将門を演じていま
した。たいへんな人気番組だったようで、その加藤剛が最近亡くなったという記事を新聞
で読みました。
近く図書館の本棚を見ると、東京案内書が何冊もありました。その中から、将門首塚の
記事をひろってみました。
「伝説では、討たれた将門の首は平安京へ運ばれ、都大路で曝された。数日たつとその
首が東国に舞い戻った。その地は芝崎村といい、病気が流行し天変地変が起きて荒廃して
いた。そこで遊行二世真教上人が供養して近くに日輪寺を建て供養した」。
「明治時代になって大蔵省の敷地となった。1923年(大正12)に起こった関東大震災の
後、この塚を整地して大蔵省の建物を建てると役人に死者や病人が続出し、ついに落雷に
より庁舎が焼けた。そこで古碑の保存を図ることになったという。太平洋戦争後にも、
米軍が塚を整地しようとしたところ、ブルドーザーが横転して死者が出たと伝わる」。
近々、神田神社に参詣するつもりです。