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鎌倉近国を歩く8.早雲の韮山城跡

2011-04-28 09:55:24 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 8 
                     早雲の韮山城



 早雲といえば、小田原を思いだします。しかし、早雲は小田原城に住まず、生涯を韮山で過ごしました。老人だったから温泉を好んだのだろう、などといわれます。しかし、それだけでもなさそうです。なぜ?と思いながら韮山城跡を訪ねました。

歩く:JR三島駅で乗り換え 韮山駅下車
   韮山中学校 韮山高校 韮山城跡 (駅から約30分)

 高校の南側から韮山城へ登りました。拍子抜けするほど低い山です。すぐ下にグランドがあって、高校生が野球の練習をしていました。その辺りは「お屋敷」という地名だったので、北条早雲は88歳?で没する(1519)までここに住んでいたのでしょう。

 見上げると、愛鷹山の後ろに頂上が白い富士山が浮かび上がっていました。「ああ、そうか」と疑問が氷解しました。早雲はこの景色を好んだのでしょう。早朝の紅色に染まる富士山、朝日に輝く富士山、真昼の富士山、夕日に映える富士山、日暮れてシルエットだけ見える富士山。一日一年を通して、その姿を見飽きることはありません。

 早雲は備中國井原(岡山県井原市)に生まれ、京都に出て宗家の伊勢氏に仕えました。大徳寺に参禅して、宗瑞(そうずい)という名を許されました。足利将軍家から今川氏の支援を頼まれ、東国に下りました。西国に育った早雲は富士の雄姿にすっかり惚れ込んで、小田原城は息子の氏綱にまかせ、ここ、韮山城をついのすみかとしたに違いありません。

 城跡の東に広い池があり、いま城池親水公園となっています。池幅が百米以上もあって、環濠の名残ではないか思いました。地図の上で韮山城を中心に円を描くと、蛭ケ小島の辺りまで環濠があったのでしょう。山城というより、水城と思いました。

 早雲は環濠の先に浮かぶ蛭ケ小島を眺めて、源頼朝(1199年没)に思いをはせていたに違いありません。「20年間も、よくまあ、あの小島で辛抱されたものだ」と「辛抱」という言葉を人生訓にして、子どもたちにもよく教えたのでしょう。

 上杉氏や三浦氏を攻めるとき、ムリせず、じっくりと待ちの姿勢に徹しました。武田信玄や上杉謙信に攻められると、サザエが蓋をしたように城に閉じこもり相手が撤退するまで辛抱強く待ちました。小田原北条は、辛抱が家訓だったのでしょう。

 江戸城を造った太田道灌が駿河に来て、早雲と会見しています。英雄相知るといわれますから、同年生まれの早雲と道灌は友だちになったはずです。道灌がそっと早雲を訪ねてきて、富士山を眺めながら東国経営について話し合ったような気がしてなりません。

 韮山城は、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにも持ちこたえました。小田原落城のあと、徳川家康の勧告で開城しました。親水公園に郷土資料館があります。幕末に活躍した江川太郎佐衛門英達の代官屋敷もあります。歴史好きなら1日歩き回っても、退屈しないでしょう。