鎌倉近郊を歩く 31
戸塚の冨塚八幡宮
写真はクリックして見てください。
戸塚の地名のルーツされる冨塚八幡宮と冨塚を訪ねてみました。
歩く:JR戸塚駅下車 西側改札口を出る 国道1号線を南に(藤沢方面)10分ほど歩く
戸塚駅の西に東海道国道1号線があり、南に歩くと右側に冨塚八幡宮が在(ま)します。
御祭神は誉田別命(ほむだわけのみこと 応神天皇)と冨属彦命(とつきひこのみこと
相武国造二世孫)です。
看板の説明によると、「平安時代に前九年の役平定のため源頼義・義家の父子が奥州に
下る途中、この地にて応神天皇と冨属彦命の御神託を蒙り、その加護により戦功を立てる
ことができたのを感謝して建久4年(1072)社殿を造り、両祭神をお祀りした」とあります。
歴史の本で応神天皇をみると、4世紀末ごろから5世紀初めごろ応神王朝を開いた大王
(おおきみ)で河内(大阪)に存在する巨大な応神陵に葬られたとあります。
応神王朝の時代に倭(日本)軍は海を渡り、高句麗(北朝鮮)に攻め込んで敗退してい
ます(好太王の碑文)。東は関東平野の端・筑波辺りまで遠征したようです。冨属彦命の
先祖が大王の家臣として仕えていたに違いありません。
国道の東側を柏尾川が流れています。冨属彦命は古墳時代に柏尾川水系を開拓して治め
た領主だったのでしょう。この塚に葬られて後世に冨塚と呼ばれたのだろうと思われます。
源頼義は河内源氏で、鎌倉に館を構えていた検非違使・平直方の娘婿になりました。
その子・義家は鎌倉で生まれました。頼義・義家の父子は前九年の役(1051~1062)で
安倍貞仁を討ち、義家は後三年の役(1083~87)で清原武衡を討つなどの活躍をしています。
義や義家は鎌倉から冨塚八幡宮の前の道に出て、相模や武蔵の豪族や若者たちの参集
を求めながら陸奥に向かったのでしょう。
石の階段を上っていくと質素な社殿が在します。社殿を護る二体の狛犬には、愛らしさ
と気品があります。社殿の左横を這うように上っていくと、小さな石碑があって冨塚と刻
まれていました。石碑の横に小道があって、降りるときはその道に出るほうが安全です。
冨塚八幡宮は古い歴史を秘めているなあと眺めました。足を運ばれて、千年の昔に想い
をはせてみられたらいかがでしょう。
戸塚の冨塚八幡宮
写真はクリックして見てください。
戸塚の地名のルーツされる冨塚八幡宮と冨塚を訪ねてみました。
歩く:JR戸塚駅下車 西側改札口を出る 国道1号線を南に(藤沢方面)10分ほど歩く
戸塚駅の西に東海道国道1号線があり、南に歩くと右側に冨塚八幡宮が在(ま)します。
御祭神は誉田別命(ほむだわけのみこと 応神天皇)と冨属彦命(とつきひこのみこと
相武国造二世孫)です。
看板の説明によると、「平安時代に前九年の役平定のため源頼義・義家の父子が奥州に
下る途中、この地にて応神天皇と冨属彦命の御神託を蒙り、その加護により戦功を立てる
ことができたのを感謝して建久4年(1072)社殿を造り、両祭神をお祀りした」とあります。
歴史の本で応神天皇をみると、4世紀末ごろから5世紀初めごろ応神王朝を開いた大王
(おおきみ)で河内(大阪)に存在する巨大な応神陵に葬られたとあります。
応神王朝の時代に倭(日本)軍は海を渡り、高句麗(北朝鮮)に攻め込んで敗退してい
ます(好太王の碑文)。東は関東平野の端・筑波辺りまで遠征したようです。冨属彦命の
先祖が大王の家臣として仕えていたに違いありません。
国道の東側を柏尾川が流れています。冨属彦命は古墳時代に柏尾川水系を開拓して治め
た領主だったのでしょう。この塚に葬られて後世に冨塚と呼ばれたのだろうと思われます。
源頼義は河内源氏で、鎌倉に館を構えていた検非違使・平直方の娘婿になりました。
その子・義家は鎌倉で生まれました。頼義・義家の父子は前九年の役(1051~1062)で
安倍貞仁を討ち、義家は後三年の役(1083~87)で清原武衡を討つなどの活躍をしています。
義や義家は鎌倉から冨塚八幡宮の前の道に出て、相模や武蔵の豪族や若者たちの参集
を求めながら陸奥に向かったのでしょう。
石の階段を上っていくと質素な社殿が在します。社殿を護る二体の狛犬には、愛らしさ
と気品があります。社殿の左横を這うように上っていくと、小さな石碑があって冨塚と刻
まれていました。石碑の横に小道があって、降りるときはその道に出るほうが安全です。
冨塚八幡宮は古い歴史を秘めているなあと眺めました。足を運ばれて、千年の昔に想い
をはせてみられたらいかがでしょう。