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鎌倉近郊を歩く9.金沢の称名寺

2009-07-11 11:40:21 | Weblog
相模国と近国を歩く 9
                  金沢の称名寺



 称名寺の「阿字が池」を見ると、極楽浄土をイメージして作られたのではないかという気がしてなりません。池の中に小島があって、赤い橋が架けられています。中世の時代にタイムスリップして、極楽にかかる橋を渡ってみましょう。

歩く:京浜急行線金沢文庫駅下車 東へ歩いて10分ほど

 鎌倉幕府の二代執権・北条義時の孫・実時(~1276)が和田合戦のあと、六浦(むつうら)を領し金沢と称しました。釜利谷の手子明神辺りに、居舘を設けたようです。

 実時は蒙古襲来のころ若い八代執権・北条時宗(~1284)を補佐し、鎌倉で激務に明け暮れました。健康を損ねて幕府の実務から身を退くと、別邸を造って住みました。書を好み、多くの書籍を集めました。敷地内に念仏堂があり、称名寺と呼ばれました。

 実時の子・顕時(~1300)は霜月の乱に連座して逼塞し、次ぎの貞顕(~1333)のとき称名寺およびその周辺が発展し最盛時を迎えました。称名寺は律院となりましたが、念仏や禅、さらには法華なども研鑽され、名僧を招きました。

 なぜ「金沢」なのか?郷土史に、この地域で赤土砂(含酸化鉄)を見かけることと、カナクソが見つかり古代に製鉄に携わった「たたら師」が居たこと、鍛冶職に崇拝された白山社があったことなどが指摘されています。カネ、すなわち鉄とのつながりが深い地だったのでしょう。称名寺の背後にある山は「金沢山」と呼ばれていたのだそうです。

 称名寺と金沢文庫を繋ぐ中世のトンネルも残されています。文庫では図書のほか、北条・金沢氏や六浦港の歴史のビデオ、展示物を見られます。実時以来三代の墓もあり、背後の山も散策できるので(実時の墓は山上)運動靴で行かれることを奨めます。

 帰りは山門を出て、すぐ前の道を東(海側)に歩き、最初の四つ角を南(右側)に進みましょう。わずかですが坂になっています。中世には、近くまで内海が拡がっていたようです。金沢シーサイドライン「海の公園口駅」がみえます。海の公園から八景島まで素晴らしい景色なので、海浜を散策することをお奨めします。

 六浦港は中世の後期に寂れました。江戸時代になって平和が続くと、江戸から六浦まで船で来て、能見堂から八景を一望する旅が人気を博しました。歌川広重の絵で「金沢八景」を売り出しました。朝比奈切り通しを歩いて、鎌倉・江ノ島への旅も喜ばれ、往来が盛んになりました。

 江戸時代初期、金沢藩1万石ができました。初代藩主は米倉昌尹(まさただ)。明治維新まで続きました。金沢八景駅南側のガードを入った谷戸奥に一族の墓地があります。