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鎌倉近郊を歩く32 茅ヶ崎の旧相模川橋脚

2016-04-08 11:21:19 | Weblog
鎌倉近郊を歩く 32
          茅ヶ崎の旧相模川橋脚



                (写真はクリックしてみてください)

 茅ヶ崎から平塚に向かって国道1号線を歩いていると、左側に「旧相模川橋脚(国史蹟)」
の碑がありました。周辺をコンクリートで囲まれた池の泥中に丸くて大きな柱が4本、
刺さっていました。手持ちの地図を見ると、相模川までまだかなり距離があります。

歩く:茅ヶ崎駅下車、国道1号線を平塚に向かって20分ほど歩く

 池横の看板の説明に、「小出川に沿った水田中から関東大震災(大正12年9月)と翌13年
1月の両度の地震により、液化現象で水田から露出。数7本。調査により、総数は10本。
丸い檜(ひのき)で直径48~69センチ、長さは3.65m。旧相模川の橋脚と推定され、
橋幅約9mで長さ40m以上の橋がおよそ南北方向に架けられていたと推定される」と
あります。

 「建久9年(1198)源頼朝の家臣・稲毛重成が亡妻の供養のために架けた橋と考証されて
いる。鎌倉幕府の歴史書・吾妻鏡には頼朝がこの橋の渡り初めをした帰途落馬し、その後
まもなく亡くなったなどが記録されている」と続きます。(岩波版吾妻鏡に記事がない?)

 説明文の横に添付された発見当時の写真を見ると、周辺に民家らしき建物がありません。
大正時代に、この辺りは一面の水田地帯であったことがわかります。

 「幅9mで長さ40m以上の橋が南北に架けられていた」というのは、どういうこと
なのでしょう。現在の相模川は南北に流れ、国道1号線は東西に走っています。地図を見ると、
この辺りの道が500mほど平塚に向かって東南から北西に向いています。そのことで
鎌倉時代この近辺に懐島(ふところじま)という地名があったことを思いだしました。

 歴史事典に「鶴嶺八幡宮のある一帯は、当時、大庭御厨(おおばみくりや)のうち懐島郷
と呼ばれていた。後三年の役(~1087)で活躍した鎌倉権五郎景正が藤沢の大庭を中心に
開発し伊勢神宮の御厨としたもので、懐島郷はその西端にあって相模川が乱流してつくった
中州(島)であったと思われる」とあります。

 地図を見ると、小出川の西から相模川まで国道1号の南側は茅ヶ崎市中島とあります。
懐島という地名は見あたりません。たぶん、中島が中世の懐島にあたるのでしょう。

 国道1号線相模川に架かる馬入橋を西に渡りました。案内書に「昭和55年竣工。
橋長563m、幅7.5m。茅ヶ崎市中島と平塚市馬入本町を結ぶ」とあります。

 稲毛重成が架けた橋は40m余、現在の馬入橋が563m。その長さの違いから重成が架けた橋は
相模川の本流に架けられた橋ではなく、懐島に渡るため相模川支流の小出川に架けられた
橋だったのでしょう。

 相模川は「山梨県の山中湖に源を発し、丹沢山地から流れ出る中津川や小鮎川などを合わせ
相模平野に入る」とあります。初夏から初秋にかけての長雨に台風の大雨が重なると、
相模川は大増水して驚くほど水位は上がるでしょう。相模川本流の架橋工事が、稲毛など
一豪族の手に負えるはずがないと思いながら平塚駅に向かいました。