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鎌倉の近国を歩く14 石橋山の佐奈田霊社

2013-05-17 06:26:28 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 14
             石橋山の佐奈田霊社


                        (写真はクリックして見てください)

歩く:JR小田原駅か早川駅からバス湯河原行きで石橋下車、
JR早川駅下車で徒歩約40分(2km)。

 早川駅下車で、海を左に見ながら歩くことをお奨めします。バス停から山側の旧道に入
り、案内をみながら東海道線トンネルの上を通ります。佐奈田神社は太平洋を見下ろす絶
景の地にあります。この辺りが源頼朝の旗揚げ石橋合戦の地です。

 神社の入り口が「ネジリ畑」といわれ、「県指定・石橋山合戦古戦場」という看板があ
ります。吾妻鏡治承4年(1180)8月23日の条に、「夜に入りて甚雨そそぐが如し」とあり
ます。台風が接近していたのでしょう。頼朝側は北条父子や土肥実平の3百騎に対し、平
家側は大庭景親など3千余騎でした。

 三浦一族が駆けつけましたが、丸子川(酒匂川)の増水で渡ることができません。景親
は背後に三浦が迫ったことを知って、頼朝の陣を夜襲しました。今はみかん畑になってい
る「ねじり畑」で、佐奈田与一が景親の弟・俣野五郎と組み討ちとなりました。

 暗夜ことで詳しいことはわかりませんが、与一は喉に痰がつまり味方の応援がえられな
かったことになっています。与一と郎党の文三(豊三か)が共に討たれ、その間に頼朝は
山路を登って逃れることができました。

 今はみかん畑のために農道が舗装されていますが、当時は両側から笹に掩われた細い道
だったのでしょう。海をみながらその夜の有様を想像していると、すぐ下をJRの電車が
通り抜けて行きました。

 頼朝は、実平とその郎党の案内で大木の穴や洞窟に隠れながら箱根まで逃げました。こ
の辺りは土肥郷に住む実平にとって自分の家の庭のようなもので、迷路のような小径を迷
わず山深くに分け入ったに違いありません。

 ねじり畑の階段を上がると、与一塚があります。吾妻鏡建久元年(1190)正月二十日の条
に「伊豆権現に御参りの処、路次石橋山に於て、佐奈田与一、豊三の墳墓を覧、御落涙数
行に及ぶ」とあります。旗揚げ合戦から10年後でした。

 前年(1189)10月に奥州藤原を滅ぼし鎌倉に凱旋しました。西の平家はすでになく、武士
の棟梁となっていました。その頼朝が人目も憚らず、与一の墳墓の前で泣いているのです。
同じ場所に立って両手を合わせ、与一の冥福を祈りながら、頼朝の気持を推しはかりまし
た。文三の墓はすぐ近くに在ります。

 頼朝はあの日、夜があけて水溜まりに写った我が顔を見て、あまりの哀れな姿に自殺し
ようとしました。血だらけの裸足で、もう歩くこともできなかったようです。実平が励ま
して、郎党が背負って逃げました。そのことも走馬燈のように、頭をよぎったのでしょう。

 鎌倉の北に証菩提寺(横浜市栄区)をつくり、与一の霊を勧請しました。頼朝は毎月、
参詣しました。石橋山合戦のことは、生涯、忘れ得ぬことだったのでしょう。

 相模湾が足元から拡がっています。天気のよい日に参詣されることをお奨めします。