鎌倉近郊を歩く 6
森戸川上流の福源寺
森戸川をさかのぼって二子山(207m)に登るとき、福源寺の前を通ります。古風な山門は格好がよく、古武士の家の門はこのような形ではなかったのかという気がします。森戸川が門の前を流れていて防禦に適し、中世土豪の館跡だろうと思っていました。
歩く:JR逗子駅下車、バス(葉山町役場行き)で長柄下車→森戸川に沿って東へ約20分。
古東海道は鎌倉から逗子を通り、桜山を越えて長柄で森戸川を渡り葉山に出ました。海岸に突き出た鐙摺道もありました。長江という豪族が、この交通の要衝を支配していたのだろうといわれます。
吾妻鏡の治承4年(1180)8月の条に、長江太郎義景が三浦軍に加わり衣笠城に籠もって畠山重忠が率いる武蔵軍と戦ったとあります。源頼朝は石橋山合戦で敗れ、行方不明でした。
福源寺付近は殿ケ谷といわれ、長江義景の館跡だろうと推定されています。長江氏は鎌倉権五郎景政の子孫で、鶴岡放生会流鏑馬(やぶさめ)の射手をつとめました。義景の子・明義は三代将軍・源実朝に仕え、建保2年(1214)の実朝遊覧のとき、おもてなしをしています。
明義は五代執権北条時頼のころ、三浦泰村と共に戦い滅びました(宝治合戦、1247)。鎌倉一族として森戸川流域を開発しながら、三浦氏との関係が深まった理由は不明です。
少しずつ宅地開発が進んでいますが、まだ、田園風景が残っています。福源寺から森戸川をさかのぼってゆくと、森林の道に入ります。自転車も通れないので、のんびり、ゆっくり、森林浴を満喫できます。
前に二子山に登っているとき、偶然一緒になった人から「ここで皇太子様ご夫妻にお会いしたことがあります」という話を聞いたことがあります。そのときの皇太子とは、平成天皇のことです。葉山の御用邸のことを思いだしました。
また二子山に上りながら、「あれから20年以上たっているのだ」と、いまさらながら年月が早く過ぎることを実感しました。しかし、森の風景は、ほとんど変わりません。福源寺から山頂まで、約2時間です。
森戸川上流の福源寺
森戸川をさかのぼって二子山(207m)に登るとき、福源寺の前を通ります。古風な山門は格好がよく、古武士の家の門はこのような形ではなかったのかという気がします。森戸川が門の前を流れていて防禦に適し、中世土豪の館跡だろうと思っていました。
歩く:JR逗子駅下車、バス(葉山町役場行き)で長柄下車→森戸川に沿って東へ約20分。
古東海道は鎌倉から逗子を通り、桜山を越えて長柄で森戸川を渡り葉山に出ました。海岸に突き出た鐙摺道もありました。長江という豪族が、この交通の要衝を支配していたのだろうといわれます。
吾妻鏡の治承4年(1180)8月の条に、長江太郎義景が三浦軍に加わり衣笠城に籠もって畠山重忠が率いる武蔵軍と戦ったとあります。源頼朝は石橋山合戦で敗れ、行方不明でした。
福源寺付近は殿ケ谷といわれ、長江義景の館跡だろうと推定されています。長江氏は鎌倉権五郎景政の子孫で、鶴岡放生会流鏑馬(やぶさめ)の射手をつとめました。義景の子・明義は三代将軍・源実朝に仕え、建保2年(1214)の実朝遊覧のとき、おもてなしをしています。
明義は五代執権北条時頼のころ、三浦泰村と共に戦い滅びました(宝治合戦、1247)。鎌倉一族として森戸川流域を開発しながら、三浦氏との関係が深まった理由は不明です。
少しずつ宅地開発が進んでいますが、まだ、田園風景が残っています。福源寺から森戸川をさかのぼってゆくと、森林の道に入ります。自転車も通れないので、のんびり、ゆっくり、森林浴を満喫できます。
前に二子山に登っているとき、偶然一緒になった人から「ここで皇太子様ご夫妻にお会いしたことがあります」という話を聞いたことがあります。そのときの皇太子とは、平成天皇のことです。葉山の御用邸のことを思いだしました。
また二子山に上りながら、「あれから20年以上たっているのだ」と、いまさらながら年月が早く過ぎることを実感しました。しかし、森の風景は、ほとんど変わりません。福源寺から山頂まで、約2時間です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます