歩く

歴史探索を楽しむ

鎌倉を歩く3.比企ケ谷から安国論寺へ

2008-11-27 09:38:11 | Weblog
鎌倉を歩く 3
          比企ケ谷から安国論寺へ



 「今日は何処に案内してくれるの?」「日蓮さんの寺を尋ねてみよう」「いいね、頼むよ」

歩く:鎌倉駅から若宮通りへ→東側(左)の歩道を海の方へ→郵便局の横を左へ→本覚寺→夷堂橋→比企ケ谷

「滑川中流にかかった夷堂橋の辺りで、コメや味噌、酒など重量物が船揚げされた」「船溜まりがあった」「比企ケ谷の入り口だ。奥に比企氏の邸があった」「朝廷特使や賓客、学者・高僧などが比企邸に入った」「迎賓館もあったんだ」「頼朝も何度も訪れている。頼家の妻は比企の娘だった」「比企があまりに優遇されて北条が怒った。」「中に入ってみよう」

「大きな日蓮像だ」「すごいなあ」「ここに一幡の墓がある」「二代将軍頼家の長男だったが、北条に攻められて焼死した」「比企一族がここで滅んだ。八百人が死んだといわれる」「激しい戦闘があったんだ」「乳母の懐に抱かれて逃げおおせた男の子がいた。比企能員の息子・能本だ。数奇な運命をたどり、日蓮さんと深い繋がりができた」
年譜:建仁3年(1203)比企能員、源頼家と謀り北条を討とうとしたが、討たれる。

歩く:比企ケ谷→常栄寺→大町通りを東(左)→妙法寺、安国論寺 

「ここがぼたもち寺(常栄寺)。刑場にひかれていく日蓮さんにご婦人がぼたもちをあげたとか」「勇気がいっただろうね。われわれも腹がへった」「大町通りにでたら食事にしよう」
年譜:文永元年(1260) 日蓮、立正安国論を五代執権北条時頼に呈す
      文永8年(1271) 日蓮、竜の口法難

「安国寺の前にきた。この先が名越だ」「説明看板を読むと、日蓮さんのことがおよそわかる」「暴徒が押しかけてきたとき、猿に導かれてお花畑の方へ逃げたそうだ」「裏山からまんだら堂やぐらの方へ行ってみよう」

「あ~、疲れた」「張り切って山登りするからさ」「バスで駅前まで帰ろう」「ビールを飲みながら、おしゃべりしよう」

「なぜ、鎌倉に日蓮さんなの?」「安房の漁師の息子が、鎌倉に出て布教した。日蓮宗のほか、浄土宗や禅宗が栄えた。鎌倉仏教で武士の宗教だ」「朝廷・公家たちに信じられたのが京都仏教であり真言密教だ」「武士の思想・文化が鎌倉で育った」「ほほう!?」「武士は農園主。一所を懸命に守った。その精神のバックボーンが鎌倉仏教だ。」「なるほど。なぜ、日蓮さんは鎌倉で布教に成功したの?」「比企能本との関係もあるけれど、日蓮さんは安達という権勢家から好意を持たれていたのではないか?安達と比企は親戚だった。時頼の母は安達氏だ」「そうか」「既成宗教集団の堕落に対する日蓮さんの激しい指弾は、政治の上で必要なことだったと思う。いまで言えば、新聞などマスコミの役目」「なるほど、面白い見解だ」「役人は怒って流刑だとか死刑だと判決したけれど、安達が救いの手を差し伸べた」「そうか」「日蓮さんは女が惚れ、男が惚れる、そんな快男子だった気がする」「ふう~ん」「今も昔も、人に嫌われて大事は成らない」「なるほど、それもそうだ」「また、歩こう」「頭のリフレッシュにもなる」


鎌倉を歩く2.若宮通りから元八幡へ

2008-11-18 11:09:22 | Weblog
鎌倉を歩く 2
          若宮通りから元八幡へ



 「今日は若宮通りを由比ケ浜まで歩いて海を見たあと、元八幡に行ってみよう」「二の鳥居で鶴岡八幡宮を遥拝して出発だ」

歩く:鎌倉駅→二の鳥居→一の鳥居(左側歩道を海に向かって歩く)

「下馬四ツ角とある」「これより北が聖なる地」「庶民は南側に住み、赤提灯の飲み屋」「三浦と小山の武士が飲み屋で大喧嘩をした」「鎌倉にどのくらいの武士がいたの?」「およそ三百の御家人、彼らに仕える多くの武士や使用人、その家族が居た」「とすると?」「商・工人など含め、鎌倉の推定総人口は六万人以上という説がある」

「琵琶橋の説明文を読もう」「滑川が琵琶の胴のように曲っているからだそうだ」「この辺り、鎌倉の谷戸に降った雨水が集まったんだ」「湿地帯だったんだね。だから段葛の参詣道を造った」「ここから一の鳥居を見ると、土地が盛り上がっている」「砂丘だったんだ」

「注意して車道を横切り、一の鳥居の説明文と畠山重保の墓を見よう」「一の鳥居は何度も造り直されたんだね」「武門の象徴だった」「畠山重保は?」「武蔵武士団の頭領と仰がれた重忠の息子。北条や三浦に滅ぼされた。権力争いで、北条はどうしても潰したかった」

「海に出た。いい眺めだ」「浜辺まで行ってみよう」「鎌倉と海のテーマで、また、歩こう。滑川の橋上に戻って反対側の北を眺めると、およそのことがわかる」「なにが?」「砂丘を開鑿した人工の川に見える」「そうだね」「頼朝のころ、滑川はもっと東側の砂丘のふもとを流れていたと思うよ、行ってみよう」「腹がへった」「途中で食事にしよう」

歩く:滑川口(から引き返す)→鎌倉女学院横を東(八幡宮に向かって右)→病院前→元八幡   

「この道を歩くと、低地という感じがするね。かってはこの辺りを滑川が流れていたと思うなあ」「ちょっと、わかりにくかったが元八幡の入り口に来た」「細い道だ。参道に昔の風情が残っている。元八幡に着いた」「静かでいいねえ。観光客が誰もいない」「源頼義が京都岩清水八幡を勧請したのは、このお宮だ」「社殿に息子の義家が白旗を立てかけた木のむくろがある」「ほんとかなあ、千年昔だ」「信じましょう」

「質素で感じのいいお宮だ」「ここが鎌倉の原点ということだね」「この背後が鶴ガ丘だったと思う」「ということは」「丘の上から湿地帯で鶴が餌をあさっているのが見えたのだ」「ほんとかね?」「ぼた餅寺の辺り、頼朝は桟敷を組んで鶴を見物したそうだ」「そうか。ここに、芥川龍之介のことが書いてある。この近くに住んでいたのだね」「中学生のころ芥川の小説を感激して読んだ」「そうだなあ、今の中学生はどうなんだろう」

歩く:元八幡から東(元八幡に向かって右)→大町通りを北へ(踏み切りをわたる)→辻の薬師→大町四ツ角    

「この辺りが鎌倉時代の繁華街だ」「そう書かれている」「逆川橋だから、この辺りまで海水が遡って来たんだろう。川船がのぼって来たんだ」「え?まさか?こんな小川に?」「千年もたてば変わるさ」「商人たちの売り声や武士たちの呼び声、女の嬌声、念仏などが響いていたんだね」「そうだろう」「次ぎは?」「北へ歩いて小町大路から日蓮辻説法跡を見ながら宝戒寺の前を通って鶴岡八幡宮に戻ろう」「まだ、日が高いよ」「案内の看板を読みながら歩くと、けっこう時間がかかるし疲れる」「そうか、飲むのなら、早めは歓迎だ」「だろう?!飲みながら、おしゃべりしよう」

歩く:大町四ツ角→夷堂橋→日蓮辻説法跡→宝戒寺→鶴岡八幡宮→鎌倉駅

「これが、今日歩いた道だ」「あ~、ビールがのどにしみる。どれどれ」「若宮大路は、頼朝が鎌倉に入ってから出来た道だ」「歩く道ぐらい、在ったのではないか?」「そうだろうね、しかし、小町大路や大町通りがメインロードだった」「なるほど」「今日歩いた道から、およその古鎌倉が推定できる。大町通りの西側を滑川が流れていたと思う」「そうか、地図をみると、よくわかる。琵琶橋あたりで滑川が湾曲してる」「小町大路の周辺に武家屋敷が多かった」「防禦には絶好だね。ということは、段葛の参詣道も防禦によい」「そうだね、北条と和田は参詣道をはさんで戦った」「それにしても、脚が痛い」「あまり歩いていない」「いや、いい運動になった」「頭の運動にもなっただろう?」「また、案内を頼む」
年譜 1213年 和田義盛、二代執権北条義時と戦い敗死(和田合戦)



鎌倉近郊を歩く3.稲荷川の光明寺

2008-11-18 10:57:01 | Weblog

鎌倉近郊を歩く 3
           稲荷川の光明寺



 秋が深まり、銀杏の葉が真黄に色づく季節になりました。晴れた日に、いたち川(柏尾川の支流)の上流に在る光明寺の銀杏を見に行きました。近くに稲荷の森があり、稲荷橋があります。この辺りのいたち川は、稲荷川と言われました。

コース:JR大船駅下車、金沢八景行きバスに乗り約30分、光明寺前で下車。

 光明寺の前の道は、六浦(むつうら)道とか金沢道と呼ばれました。もう少し行くと八軒家という地名もあるので、かっては、人家もまばらで静かな山村だったのでしょう。昭和初期、相模と武蔵の国境である尾根の下にトンネルが掘られ、開発が進んだようです。

 境内に石碑があって、鎌倉幕府五代執権北条時頼(~1256)の母・松下禅尼の隠居所であったと記されています。時頼に障子の部分張替えで節倹を教えた賢母として、知られます。

 徒然草の第184段「相模守時頼の母は松下禅尼とぞ申しける。守を入れ申さるる事ありけるに(時頼を招待されたときに)…」と読んでいると、招待された場所はこの光明寺に違いないと思うのです。

 本堂の前に座って黄色い銀杏の葉が次々に舞い落ちる光景を眺めていると、庭を箒で掃かれている禅尼の姿が彷彿と浮かんできます。禅尼が没して、半世紀後に兼好法師がこの地に訪ねて来たのではないか、という気がするのです。彼は、いたち川沿いの宿にしばらく住んでいました。秋の銀杏が散る庭に、しばしたたずむ光景がふさわしく思います。

 銀杏は公孫樹・鴨脚樹とも書かれ、「中国が原産とされるが自生地は不明」とあります。「進化的に古い植物で化石種も知られる」と続きます。扇形で葉枝を具した葉姿はもの寂しく、晩秋の晴れた日にしきりに散る姿が憐れです。

 いたち川に沿って、遊歩道が整備されています。帰りは大船まで歩いて、約2時間です。途中で歩き疲れたら、六浦道へ出ると大船行きのバスに乗れます。今、環状4号として、道路の拡張工事が進められています。


鎌倉近郊を歩く 2.旗立山の御霊神社

2008-11-10 12:14:35 | Weblog
鎌倉近郊を歩く 2
           旗立山の御霊神社


 JR東海道で大船から藤沢に向かうとき、駅を出て間もなく左側に小山がみえます。地図でみると、御霊(ごりょう)神社とあるので訪ねてみました。

コース:JR大船駅下車、観音様側に出る。柏尾川の右岸に沿って下る。武田薬品バス停前辺りでJR東海線ガード下をくぐって反対側に出る。徒歩でおよそ1時間。

農園風景が広がり、宮前の御霊神社には人影がありません。あまりに静かで、電車が通り過ぎたあとカラスの鳴く声がいやに大きく聞こえました。

墨太く書かれた立札の説明によると、前九年の役(1056)で源頼義が山上に白旗を立てて軍勢を募ったのだそうです。息子の鎮守府将軍八幡太郎義家も、後三年の役(1086)で同じように白旗を立てて兵を集めました。16歳の鎌倉権五郎(ごんごろう)景政が義家に従軍しました。

藤沢から村岡、宮前を通り、梶原から化粧坂に至る鎌倉道(武蔵大路か)があったそうです。山上の源氏白旗は東海道を行く旅人から、相模だけでなく駿河や甲斐や遠江、武蔵や上総や下総などに伝えられ、各地の猛者(もさ)たちが息をきらして鎌倉に馳せ参じたのでしょう。義家を崇敬する権五郎が山のてっぺんを切り払って、白旗を立てたような気がするのです。

仙北郡(秋田県)の戦いで片目を矢で射抜かれながらも敵を仕留めた権五郎の剛勇に、誰もが驚嘆しました。畏敬の念を込めて「景正どの」と呼ばれたのでしょう。帰郷した景正は宮前の御霊神社に感謝して、兜を奉納しました。彼の館がこの辺りに在ったのでしょう。死して御霊神社に祀られ、神となりました。

景政の子孫である大庭、懐島、長尾、梶原などは景政を誇りとして、「景」の字を名前に付けました。梶原景時は、平家との戦い(1184)で大音声を揚げて権五郎景正の勇猛ぶりを長々と讃え「五代末葉である」と名乗りました(平家物語)。およそ五百年後の上杉謙信(長尾景虎)も、遠祖・権五郎景正が誇りだったに違いありません。

源頼朝は旗挙げした石橋山合戦(1180)で惨敗して、洞窟に隠れました。平氏軍として戦った梶原景時は、そのことを知りながら見逃しました。先祖・景正と源氏の繋がりを思いだし、情けをかけたのです。まさか、一介の流人・頼朝が天下を取るとは思わなかったでしょう

新田義貞が鎌倉を攻撃したとき、鎌倉方の北条(赤橋)守時は6万の兵を指揮してこの辺りで戦いました(1333)。「州崎の戦い」といわれ、柏尾川をはさんで激しい攻防戦が繰り広げられたのでしょう。

また、電車が通り過ぎました。ひとしきり、カラスのかしましい鳴き声が響き渡りました。宮前御霊神社が在(ま)します旗立山はカラスにとっても目立って、集まりやすい小山のようです。


鎌倉を歩く 1.鶴岡八幡宮から浄明寺へ

2008-11-02 10:54:35 | Weblog
鎌倉を歩く 1
          鶴岡八幡宮から浄明寺まで



 定年をとっくに過ぎて、毎日がヒマな友だちから「オマエの家は、鎌倉に近い。案内してくれないか」と頼まれました。「いいよ。何度かに分けて1日5~6時間歩く鎌倉探訪はいかがかな?」「ああ、それで頼む」で、決まりました。

 10時に鎌倉駅で会って、歩き始めました。まずは、鎌倉八幡宮です。駅から二の鳥居をくぐって三の鳥居まで20分ほどでした。
「二の鳥居ということは、一の鳥居があるの?」「海側に見えるだろう、次ぎに案内するよ」「源頼朝が由比の鶴岡から現在地に移したと看板に見える」「元八幡と呼ばれている。先祖の頼義が京都岩清水八幡を鶴岡に勧請した」
「前九年の役で活躍した源頼義という人は?」「中央武官で頼朝の五代祖。河内源氏だよ」「関西人か?」「鎌倉にも屋敷があった」「どうして?」「相模守のとき平直方に入婿だ」「館跡は?」「寿福寺あたり。また案内する」
年譜 1062年 奥州前九年の役が終わる
1192年 源頼朝、鎌倉幕府を開く

「この小学校が大蔵幕府跡だね」「大蔵幕府?」「北条時代に若宮に移った」「大蔵は地名か?」「そう。後ろが頼朝墓だ」「法華堂跡で三浦が五百人腹を切ったとある」「三浦と北条の権力争いだ。源氏は断絶か」「とっくに、だ。三浦は北条に破れ滅亡した」「承久の乱で鎌倉が京都を圧倒した後だ」「宝治の合戦で北条独走態勢が決まった」「近くに、島津と毛利の墓があるよ。」
年譜  1219年 実朝暗殺、源家断絶。次々年に承久の乱
  1247年 宝治合戦、五代執権北条時頼、三浦を滅す

歩く:鶴岡八幡宮→頼朝墓→荏柄天神社→鎌倉宮→覚園寺

「覚園寺は二代執権北条義時が薬師堂として建立した」「義時は承久の乱で、姉の政子を助け指揮した」「百年後に、足利尊氏が仏殿を建立した」「義時も尊氏も朝廷軍を破り武家政治を守った」「京都の王朝政治に対する、武家政治の故地だ」「奥が深くていい庭だ、説明もよかった」「庭の向こうの山が鎌倉アルプスだ」「えっ、アルプス?そう、また、案内するよ」「腹がへった。そこら辺りでメシを食べよう」
年譜 1221年 義時死去、翌年北条政子、大江広元死去
1333年 新田義貞、足利尊氏、鎌倉幕府を滅す

歩く:覚園寺→鎌倉宮→浄明寺

「浄明寺の辺りは太平記の里だ。足利の屋敷跡」「尊氏・直義兄弟もここで生まれた?」「兄弟の父・貞氏の墓がある」「足利代々の墓は、川向こうの報国寺にある」「ここまでくると、観光客も少ないね」「ゆっくり、のんびり、お茶を飲んで行こう」「鎌倉幕府滅亡の日、この辺りは平静だった」「どうかな?主戦場は由比ケ浜・若宮だった」「足利の主力は上洛していた」

歩く: 浄明寺→報国寺→上杉屋敷跡→田楽師辻→釈迦堂口→田楽師辻→大御堂跡→鶴岡八幡宮

「ああ、くたびれた。ビール!」「けっこう、歩いたなあ。飲みながら話そう」
「なぜ、頼朝が鎌倉に幕府を開いたかわかった」「親父の義朝は逗子と鎌倉に館を構えた」「前九年の役のころから、関東・東北の地を狙っていたのだ」「五代百年もかけて」「源頼朝の血筋は実朝で絶えた」「新田・足利は源氏の正統という誇りを持ち続けた」「北条は平氏で疑い深いから、用心した」「新田は嫌われ、足利が大族になった」「足利の当主は早く隠居したり、気違いのマネをしたり」「北条が恐かった」「尊氏の母は上杉清子、上杉あっての足利だ」「京から下ってきて、足利の家宰となった」

「頼朝が鎌倉に入ったころ、町はどうだったのだろう」「吾妻鏡には漁師町だったとある」「東海道からはずれている」「古東海道は鎌倉を通り逗子を抜け走水から上総国に渡った」「そうなの?知らなかった」「中世も鎌倉・逗子から六浦や走水へ出て船便を使った」「上総、下総、武蔵と一衣帯水だ」「三浦は御浦。古代より朝廷の重要交通拠点だった」「わかった。鎌倉は関東の玄関口だった」「関東だけでなく、東北は青森まで」「でかいことを言う。でも、わかるよ」「河内源氏が五代かけて鎌倉に固執した理由だ」「その遺志を継いだのが北条なのだ」「よい運動になった。また、歩こう」