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鎌倉近郊を歩く24 本覚寺のアメリカ領事館跡

2012-11-16 09:11:39 | Weblog
鎌倉近郊を歩く 24
        本覚寺のアメリカ領事館跡


(写真はクリックして見てください)

 アメリカ領事館があった神奈川の本覚寺を訪ねてみました。

 歩く:京浜急行線神奈川駅下車 3分

 神奈川駅を出るとすぐ前に東西の道があり、旧東海道でした。JR線陸橋を渡って
坂道を登ると本覚寺(曹洞宗)があります。山門脇の老木は樹齢2百年のスタジイで、
先の戦災のとき山門とともに消失を免れました。すぐ横に、アメリカ領事館の石碑と、
岩瀬忠震(ただなり)の顕彰碑があります。

 案内書に「安政6年(1859)6月2日アメリカ公使ハリスや領事ドーアらは、境内に
あった松の大木を旗竿として、星条旗を掲げて国歌を合唱し、日米通商貿易協定の発
足を祝った」とあります。その日から、アメリカとの貿易が始まりました。広重の絵
をみると丘の下の東海道にそって家並みがあり、その先が海だったことがわかります。

 岩瀬は旗本の家に生まれ昌平校に学びました。時の幕府老中筆頭(総理大臣)・阿部
正弘は黒船来航という非常事態に、従来の門閥にとらわれず人材を抜擢しました。後
世に知られた役人に岩瀬のほか、川路聖護、大久保忠寛、勝麟太郎(海舟)などがい
ました。

 秀才といわれた岩瀬は、海防掛に任命されました。下田に出張を命じられ、ハリス
やロシアのプーチャーチンと応接しました。日本は2百年以上も鎖国状態が続いてい
て、幕閣や役人たち誰もが開国して自由に貿易することに反対でした。できるかぎり
開国を先延ばしにする消極論でした。

 岩瀬は神奈川を開港して、貿易を盛んにすべきと主張しました。富国にいたるのは
貿易であり、富国によって強兵となし、世界万国に仲間入りすべきと国家革新策を献
言しました。阿部が岩瀬の「富国強兵の策」に感銘して幕閣に伝え、明治政府に受け
継がれ、日本の国是となりました。

 神奈川は東海道に沿って交通が頻繁であり、各国の領事館や商館などが増えると警
備上好ましい場所ではありません。日米通商貿易協定が締結されて発足するまでの1
年間に、当時、葦が生えて漁村だった横浜を大急ぎで埋立てました。高島という青年
が埋立工事を請け合い、高島町の名と高島屋を残しました。

 岩瀬は将軍継嗣問題に巻き込まれ、阿部亡きあと大老・井伊直弼の怒りをかい、永
蟄居の処罰を受け向島に隠棲しました。2年後の文久元年(1861)に憤死、享年44。 
井伊の銅像は中区紅葉ケ丘の掃部山にあり、日夜、横浜港を見つめています。横浜開
港の先駆者・岩瀬の銅像をつくり、「赤い靴」の女の子の銅像がある山下公園に設置し
てあげたいものです。

 京急神奈川駅の横に旧東海道の案内図があります。イギリスやフランスの領事館跡
など、この辺りの旧東海道を散策することをお奨めします。




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1 コメント

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本覺寺訪問記 (chiku39)
2014-07-27 06:14:50
ご無沙汰しています。
http://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/5f3db2401b582098dd09a3daff64d285で本覺寺訪問記を書きました。私の場合ジョセフ・ヒコを主題にしているので、横浜開港の恩人の岩瀬肥後守忠震(ただなり)についてはサブで記述していますのでこのような書き方になっています。
Kさんとの会話が中々面白く読ませて頂いています。ブログ記事の投稿間隔が以前は1回/月をキープしていたのが最近間隔があいているのが気になっています。
7月25日、26日は猛暑日となっています。ご自愛ください。
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