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鎌倉近国を歩く25 

2017-10-12 10:06:40 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 25
                鹿島神宮


      写真はクリックしてみてください。

 大化改新(645)を企画した藤原(中臣)鎌足は、鹿島神宮の神主の子といわれます。源頼朝
は鹿島神宮に参詣して、社領を寄進しました。爾来、鹿島神宮は関東の武人たちから厚く
崇敬されました。万葉集にも歌われた鹿島神宮を参詣して、その歴史を調べてみました。

歩く:JR成田線で佐原下車。鹿島線に乗り変えて鹿島神宮駅下車

 鎌倉の神社・仏閣のにぎにぎしさがなく、静かな森の中に本殿、楼門、奧宮、仮殿など
がひっそりとたたずんでいました。案内書に、「近世初め、徳川将軍家が朱印2000石を寄進
して諸社殿を復興し、社観を整えた。国の重要文化財に指定されている」とあります。
 
 祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)です。出雲大社に祭られた大国主命(おお
くにぬしのみこと)が、武甕槌大神に強要されて葦原中国(あしはらのなかくに)を献上し
た古事記か日本書紀の記事を思いだしました。出雲大社と同じころに創建された神社なの
でしょう。万葉集の一句と注が記されていました。

「霰(あられ)降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍士(すめらみくさ)に我は来りしを
 
 奈良時代、九州に向かう防人(さきもり)たちは鹿島の神に武運を祈り、ここから出立した。
これを鹿島立ちといった」。

 鹿島神宮を参拝して帰り、図書館で万葉集を開いてその注をみました。
「万葉集4370。霰降りは鹿島の枕詞。天平勝宝5年(753)大伴家持は防人検校の任務で
難波に赴き、九州に向かう東国出身者から歌を集めた」

 歴史事典に「房総から難波まで陸路で約15日」とあります。万葉集4372は長歌で
「足柄のみ坂賜(たまわ)りかえり見ず我はこえ行く荒し男も(以下略)」。「足柄の神の坂を
通していただいた我々は勇んで」という意味だそうで、およその行程が推察されます。

 九州筑紫へ旅たつ若者たちは鹿島神宮に集まりお祓いを受け、家族と涙の別れをしたの
でしょう。そして足柄峠を越えて難波に向かいました。1000年以上がたった今、スマホ
を片手に境内を歩く人たち。東京駅から社殿前に立つまで約2時間。また、1000年が経つと、
どういう人たちが、どんなかっこうで歩いているのだろうか、と頭をよぎりました。


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