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鎌倉近郊を歩く15逗子の岩殿寺

2010-12-29 11:51:31 | Weblog
 鎌倉近郊を歩く 15
           逗子の岩殿寺



 古東海道は藤沢から鎌倉長谷観音前辺りに出て、由比カ浜を海を見ながら歩いて光明寺坂を上る道と、一の鳥居辺りを通る車大路の二本の道があったそうです。車大路は名越切通しを通って逗子へ出たはずです。名越から逗子へ出る古道がみつからないのです。地図をみると、まんだら堂・名越切り通しの先に道路や民家があって、その向こうに岩殿寺があるので出かけてみました。

歩く:JR逗子駅下車 駅の北側で線路にそった道を鎌倉の方へ 約15分歩く

 矢印に従って北のほうへ歩くと、なだらかな坂道があって岩殿寺に着きました。案内書によると、「海雲山護国寺と号し、聖武天皇(~756)のころ行基の開創と伝えられる。寛喜2年(1230)西願が再興。天正19年(1591)諸堂宇が修築された。泉鏡花は明治39年夏から4年間病気療養のため逗子に滞在し、たびたび訪問。住職との対話をもとに『春昼』などを書いた」とあります。

 山門を入ってすぐ左手には、昭和37年、鏡花と親しかった久保田万太郎や里見などの文人らが中心になってたてた石碑があり「普門品(ふもんぼん)ひねもす雨の桜かな」の一句が刻まれていました。ここで花見をかねて句会が開かれたとき、終日、雨がしとしと降っていたのでしょう。

 急な階段を昇りきると、銅板葺きの観音堂があります。案内書には「棟札により享保13年(1728)に築造されたことがわかる。堂の中に秘仏十一面観音像があり、年1度、正月18日の開帳のときしかその姿を見ることができない。堂裏の洞窟のなかには、奥の院の本尊石造十一面観音が安置されている」とあります。

 観音堂の左横の山道をのぼると、眼下に家並みと道が見えました。行き止まりの所に昭和52年造られた石碑があり「かってこの山頂より二階堂にかけて巡礼の古道があった」と彫られた字をみて、やはり、と思いました。名越切り通しから岩殿寺まで尾根道が続いていたのです。「吾妻鏡に源頼朝は毎月18日、観音様の縁日に古道を通って参詣したとある」のだそうです。

「わずか1里の道とはいえ大樹の林立する屋根の景色は四季を通して素晴らしく巡礼者の心を慰めた」「開発という政策によって消え去ってしまった」と読み進んで、呆然としま、した。古東海道と推定される、歴史的に由緒のある古道が消えたのです。ポロリ涙。岩殿寺17世正教師も、涙をぬぐいながら起草されたに違いありません。

 萩原朔太郎の「いかんぞ いかんぞ思惟(しい)をかへさん われの叛(そむ)きて行かざる道に 新しき樹木みな伐られたり」(大正14年)を思いだしました。「山も古道もなくなりにけり」では、詩にならないなあと思いました。

 観音堂から逗子を眺める景色はすばらしい。青い山並の向こうに、逗子海岸がわずかにに望めます。「開発という政策」で青い山並みを削ることは、もう、しないで欲しいと思いました。