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鎌倉の近国を歩く10小田原早雲寺

2011-08-29 07:36:25 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 10 
               小田原早雲寺

                      (写真はクリックして見てください)

 小田原北条の祖・早雲を調べていたら、「早川と須雲川から一字をとって、早雲と名乗
ったのではないか」とありました。そのことで両川が交わる地点に造られた早雲寺を訪ね
てみました。

歩く:JR小田原駅 箱根登山鉄道に乗り換え湯本駅下車 早雲寺

 湯本駅から小田原の方に少し戻って、三枚橋で早川を渡り、旧東海道を少し登ります。
箱根新道と小湧谷に回る国道1号線にその役目をゆずり、眠りについているように静かな
道です。駅からの所要時間は、約20分です。早雲寺門前にベンチがあり、横の看板に「町
指定天然記念物ヒメハルゼミの生息地、七月半ばごろ現れる」とありました。
 
 案内書によると「金湯山早雲寺(臨済宗)は北条氏綱が早雲の遺言で建立した。後北条
氏の菩提寺として戦国時代には数多くの塔中を持ち、関東屈指の禅刹となった」とありま
す。門に入ると正面に本堂があって、右手に鐘楼がありました。左手に北条五代の墓とあ
るので、先にそちらへ回りました。

 奥の石段を上がると、位牌型の同じ墓石が5基、行儀よく並んでいました。関東八カ国
の太守の墓にしては、あまりに質素です。案内書を見ると、「寛文十二年(1672)に河内国
狭山藩主の北条氏冶によって建てられた供養塔である」とあります。徳川4代将軍家綱の
時代で、北条氏が滅びて80年後です。

 すぐ近くに飯尾宗祇の墓があって、こちらは古そうです。案内書には「この墓が早雲か
氏綱のものではないかともいわれる」とあります。本堂裏にある枯山水の庭園を拝見して、
鐘楼の前に立ちました。元徳二年(1330)の銘がある鐘で、秀吉の小田原攻めに用いられた
とも書かれています。

 門前のベンチに座って一休みすると、いろいろ疑問がでてきました。小田原北条氏は、
なぜ、城下から歩いて半日かかるこの地に早雲寺を造ったのでしょうか。鎌倉北条氏の場
合、居館であった宝戒寺の地と建長寺・円覚寺は至近の距離にあります。「関東屈指の禅
刹」で名僧や学問僧が居たなら、城主や家来たちは坐禅に参加したり高僧の話を聞きたか
ったはずです。ここでは、少し遠すぎます。もっと小田原城に近い距離で、大寺院に適し
た土地があったでしょう。

 古東海道は、奈良・平安時代に足柄峠を越えました。鎌倉時代になって、湯本から芦ノ
湖畔へ出て三島へ降りました。戦国時代には、早雲寺の横の道を通り芦ノ湖へ出る道とな
りました。交通が盛んな東海道沿いなら、戦火に巻き込まれる危険がたかまります。

 帰って資料を見ると「早雲寺は七堂伽藍を備えた本堂と、多くの塔頭(子院)が並び、
五百名を超える衆僧によって活気が溢れていたが、何度も戦火に遭った」「武田信玄の軍
に、略奪や放火された」「豊臣秀吉は小田原攻め(1590)で、一夜城ができるまで二カ月ほ
ど早雲寺を本営とした。秀吉が一夜城に移るとき、早雲寺を焼却し破壊した」とあります。

 早雲寺の地に、真覚寺があったのだそうです。早雲は真覚寺の一隅に草庵をつくり、温
泉につかって老体の疲れを癒したのでしょう。早雲の小田原城奪取は明応四年(1495)です。
永正十五年(1518)氏綱に家督ゆずり伊豆韮山城に隠居しました。およそ20年間、韮山と
小田原を足繁く往復していたのでしょう。しだいに防備が厳重になり、やがて、小田原出
入りの関所になったに違いありません。信長・秀吉の方針は関所を撤廃して、交通を自由
化することでした。秀吉は関所となっていた早雲寺を破壊して去ったのだろうと思いまし
た。