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鎌倉近郊を歩く18.中島三郎助の招魂碑と墓

2011-10-28 07:17:26 | Weblog
鎌倉近郊を歩く 18
         中島三郎助の招魂碑と墓

                     (写真はクリックして見てください)

 明治、大正、昭和初めの男は、「武士のような」と言われることを好み、言語を慎み、
行動しました。江戸時代の男は、「古武士(こぶし)ような」と噂されることを誇りとし
ました。徳川幕府に殉じた中島三郎助は、そのころ「古武士のような男」といわれ、いま、
「ラストサムライ」と呼ばれます。その三郎助の碑と墓を訪ねました。

歩く:京急線浦賀駅下車 バス久里浜行で紺屋町下車 

 バスを降りて、案内表示に従って石段を登って行くと愛宕山公園に着きます。浦賀港を
見下ろせる景勝の地に、中島三郎助の招魂碑があります。碑文は榎本武揚によるものです。

 三郎助は浦賀奉行の与力で、嘉永6年(1891)ペリーが浦賀に来航したとき、日本人とし
て最初に黒船に乗り込み、交渉にあたりました。長崎の海軍伝習所の第1期生として、勝
海舟や榎本らとともに学びました。広場には昭和35年に、日米修好通商条約締結100年
を記念して建立された碑があります。

歩く:下山して渡船 東林寺

 東林寺に三郎助の墓があります。日本最初の洋式船「鳳凰丸」を浦賀で建造しました。
その説明が横のパネルに書かれています。のちに浦賀造船所として発展し、住友重機浦賀
造船所となり、平成15年に長い歴史を閉じました。

 長州藩は幕府から、三浦海岸の警備を命じられていました。桂小五郎は薩摩が洋式船を
造っていることを知り、あせっていました。大工二人を連れて浦賀に現れ、三郎助の家に
座りこみました。断り続ける三郎助をどう説得したのか、裏の漬物小屋を手入れして住み
込みの弟子となりました。

 小五郎は三郎助を生涯の師としました。大工たちは三郎助によって浦賀の造船所に出入
りできるようになりました。ロシアの船が下田で津波によって破船となったとき、帰る船
を造ることになりました。三郎助の伝手で、大工が建造所に出入りするようになりました。

 久坂玄瑞が遊びにきて牡丹の絵を書き、三郎助が「花の眼のおさまり所のぼたんかな」
と書き添えました。長州の若者たちが三浦海岸からやってきて、母屋にあがりこんでいた
のでしょう。「ここは幕府役人の家だ、遠慮したらどうか」とぼやきながら、むずかしい
顔をして漬物小屋に座っている小五郎と、母屋ではしゃぐ若者たち。

 小五郎は浦賀に住んでいた蘭法医の東条英庵を、三郎助から紹介されました。長州人と
の繋がりができました。小五郎は2カ月滞在して去りました。のちに、長州は三郎助に感
謝して、白銀10枚ほかを渡そうとしましたが、断られました。

 10年ほどたって、明治元年(1868)榎本と三郎助は江戸湾に浮かぶ旧幕府艦隊を率いて、
新政府を代表する勝海舟と面会しました。二人は技術屋型で、政治屋型の勝を嫌っていま
した。「艦隊を全部引き渡せ」「断る」の繰り替えしで、勝は苦笑していたのでしょう。

 小五郎は、師・三郎助のことを心配していたでしょう。三郎助は艦隊とともに北に去り、
親子3人は函館で明治政府軍と戦い亡くなりました。享年49。息子は22歳と19歳。

 「函館の戦いの報告を聞きながら盃を口につけようとした木戸(桂)は、中島の戦死を
知ると盃をおいて嘆息し、その夜は酒を口にしなかった。古武士のような中島の性格を知
っていただけに、こうなることを危惧していた(中略)そういう嘆きを、木戸はのちのち
までくりかえす」(醒めた炎)とあります。

 浦賀の渡し場の近くに、ペリーが浦賀に来たとき黒船を見物にきた佐久間象山や吉田松陰
が宿泊した徳田屋跡の碑があります。近くに東叶神社があります。奥の院の太平洋が見渡せる
高台は、勝海舟が咸臨丸の艦長に任命されて航海の安全を祈り断食した所です。

 冬でも比較的暖かく、海をみながらお弁当を食べるには好いところです。