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鎌倉の近国を歩く20 清水港から三保の松原へ

2015-06-08 08:32:14 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 20 
           清水港から三保の松原へ


                       (写真はクリックして見てください)

 徳川家康は吾妻鏡を何度も読み、源頼朝を崇敬していました。鎌倉を好み、近くの柏尾
川で度々鷹狩りをしました。鷹匠を住ませるほど熱をいれました。なぜ、家康は江戸に近
い鎌倉を引退の地としなかったのか考ています。江戸城に住む二代・家忠に指令を出して
遠隔操作するには、駿河では遠すぎます。そのことで清水港を訪ねてみました。

歩く:JR東海道本線清水駅下車 清水港は駅から歩いて5分ほど 周辺散策
   駅前に戻り、バス三保方面行きバスで松原入り口

 案内書に「慶長12年(1607)徳川家康は征夷大将軍を辞して駿府(静岡市)を隠退の地
として江戸より移った。町家を建設し、42軒の廻船問屋に営業権を与えた。以後、清水
港は江戸・大坂間の物資輸送の中継地として、多くの廻船で賑わった」とあります。

 国道1号線(東海道)は清水駅の西横でほぼ直角に曲がっています。伊豆や相模、武蔵
や常陸などの住人が京へ上るとき、ここで西にターンしたのでしょう。源頼朝も足利尊氏
もここで向きを変えて、京をめざしたに違いありません。駅の東横が清水港です。

 家康が気候温暖な駿府に引退したのは、たんに老いを養うためではなかったのでしょう。
大阪城攻撃の出兵には、駿府がキーポイントになりました。大阪の陣には、関東10万の
兵がここで西に向きを変えて東海道を上りました。

 多くの大砲を試射して、清水港から大阪港へ船で運びました。冬の陣で難攻不落を誇っ
た大阪城は大砲の一斉射撃により城郭が崩れ、講和のやむなきにいたりました。壕を埋め
られて、半年後の夏の陣で落城し豊臣氏は滅びました(1615)。

 港の辺りは(静岡市清水区港町)、かっては江尻津と呼ばれていました。広重の東海道
五十三次江尻があります。案内書を片手に、咸臨丸乗組員を葬った「壮士墓」や「次郎長
の生家」などを回りました。「明治元年(1868)暴風雨で清水港に漂着した幕府軍艦・咸臨
丸の乗組員は、官軍に殺された。清水次郎長は子分を指図して、放置された遺体を巴川畔
に埋葬した。旧幕臣・山岡鉄舟が感激して墓碑銘を贈った」のだそうです。

 駅前に戻って、バスで美保の松原に向かいました。家康は風光明媚な松原に何度も足を
運びながら、大阪城攻略の策を練っていたのでしょう。松原入り口でバスから降りて、御
穂神社に参詣しました。「延喜式式内社で創建年代は不明。祭神は大己貴命と三穂津姫命」
だそうです。宝物館には国重文の太刀拵や天女の羽衣の一片といわれる布の切れ端などが
展示されていました。

 御穂神社の横から松原続きで、「羽衣の松」と「三保の松原」の石碑が立つ海岸に出ま
した。「現在の羽衣の松は樹齢650年のクロマツで2代目(3代目?)だそうです。多くの
松と海岸の景色を眺めながら北に20分ほど歩くと清水灯台がありました。ここから眺め
る富士山は絶景です。

 灯台の近くに「甲飛予科練之像」があります。「予科練教程専門の練習航空隊。隊員た
ちは全員特攻隊に編入された」のだそうです。三保の松原に飛行場があったとは意外でし
た。若者たちが爆弾を抱えた飛行機で敵艦に突っ込むとき、母の顔とこの景色を思い浮か
べたに違いありません。 合掌。