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鎌倉の近国を歩く7.韮山の蛭ケ小島と願成就院

2010-09-29 13:58:19 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 7
(相模国と近国)     蛭ケ小島と願成就院
                              (写真はクリックして見てください) 
                         

 なぜ、平清盛は平治の乱(1159)のあと14歳の少年・源頼朝を伊豆へ流したのか、その理由がわからないまま、今日にいたりました。なぜだ、何故だとつぶやきながら、また伊豆の蛭ケ小島にやって来ました。いっそ、俊寛と同じ薩摩の硫黄島へ流せば、平家は安泰だったと思うのです。

歩く:JR三島駅下車 伊豆箱根鉄道で韮山駅下車 東へ約20分歩いて蛭ケ小島跡

 子どものころ田植えの手伝いに裸足で水田に入ると、必ずといっていいほど5センチほどの細長くて黄土色の蛭(ひる)が足に吸い付いていました。引き剥がすと、その跡から赤い血が流れ落ちました。蛭ケ小島という地名なので、人の血を吸う蛭が多く住む沼と川が連なった深田・湿地帯の中の小島だったのでしょう。

 韮山町史によると中世には、狩野川は韮山駅の辺りを南北流れていて、馬に乗って通れないような小路が東西に蛭ケ小島へ通じていました。氾濫を繰り返す暴れ川で、頼朝のころはたいへんな湿地帯だったようです。

 今は耕地が広がり、湿地帯の面影はありません。小島があったという石碑と新しい頼朝・政子の銅像があります。よくできた像で、蛭カ小島時代の頼朝と政子は、きっとこのような若夫婦だったのでしょう。観光バスがやって来て、せわしく去ってゆきます。

 歩く:蛭ケ小島の前の道を西へ 線路を越えて136号線へ出る 茅葺の屋根(願成就院)

 文冶二年(1186)北条時政は平泉の奥州藤原氏征討を祈願して、自分の屋敷に願成就院を造りました。運慶作の阿弥陀如来、不動明王と二童子、毘沙門天像を拝観できます。その見事な彫刻を見ていると、時政と運慶の出会いを想像せずにはおれません。

 東大寺南大門の仁王像を作った運慶が北条屋敷に逗留して作ったという説と、奈良で作ってこの地に運んだという説があります。肩が盛り上がって胸が大きくぶ厚い仏像から、運慶は東国に下ってきて、この辺りの強そうな武士をモデルにして造ったのだろうと思いました。

 願成就院の庭から蛭カ小島の方を眺めましたが、民家が前を遮って見ることができません。時政は清盛から頼朝監視を命じられていました。庭先から狩野川越えに蛭カ小島が見えたはずで、朝晩、頼朝が煮炊きする青い煙を見て、「居るなあ」と判断したに違いありません。

 頼朝は20年もよく辛抱しました。監視する父の後ろに立つ長女の政子はいつしか頼朝を恋しく思うようになり、暗夜の雨の中を伊豆山神社へ駆け落ちしたのでしょう。そのことで、日本の歴史が変りました。夏目漱石の三四郎の中にある、「可哀そうだは、惚れたてことよ」(Pity is akin to love)という一節が頭に浮かびました。

 願成就院の近くには北条と頼朝・政子の遺跡があって、静かに時空を越えています。天気の好い日に韮山の田園地帯を歩きながら、時政や運慶、頼朝や政子たちがみた山並みなど、遠くに富士山を眺めてはいかがでしょう。川の流れや地表は変っても、山並みなど不変の風景があるはずです。