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歴史探索を楽しむ

鎌倉を歩く6 粟船の常楽寺

2009-11-20 08:42:45 | Weblog
鎌倉を歩く 6
              粟船の常楽寺

                             (写真は2度クリックすると大きくなります)   

 「粟船の常楽寺に行ってみよう」「粟船?そんな所が鎌倉にあるの?」「今は大船という」
「昔は粟船と言ったのか」「三代執権北条泰時に由来するお寺だ。泰時の法名は常楽院。15代執権のうち、一番の人物だ。幼名が金剛。源頼朝も政子も金剛の将来を期待して可愛がった。政子の弟・二代執権北条義時の子だ」「行ってみよう」「それにしても常楽院とは、泰時の人柄がわかるなあ」「ほんと」

歩く:大船駅東口を東へ 元松竹撮影所前を右折 三菱電気工場前を通り過ぎて左折
  (約20分)

 「突き当たりに松竹撮影所があった。今は女子短大だ」「そう」「その前に、山蒼稲荷神社がある。土地開発するとき事故が相次ぎ、神社を祀ったとある。このあたり、砂押川が柏尾川に合流して大きな遊水地だったから、地盤がわるかった」「そうなの」「底が平べったい舟がコメや粟など穀物を積んで浮かんでいた。柏尾川水系の運輸を担っていた」「舟が浮かんでいたとは想像できないね」

 「柏尾川はたびたび洪水を起こした。その惨状は、三途の川だといわれた」「ほんと?」「明治天皇が京都から東京に行かれるとき、鎌倉に寄られた。あまりのひどさに、なんとかならぬのかと言われたそうだ」「ほう」「ここ、常楽寺前が船着き場だったと思う」「話しているうちに着いた。粟船山常楽禅寺とある。その横の石碑は、触れると崩れそうだ」「木曾義高は読める。それにしても、ひどい痛みようだ」「木曾義仲の息子が義高。墓がある」

「藁葺きの門はいいねえ。中もひっそりとして人影もなく、落ち着いている。大船駅前の賑わいがウソのようだ」「古寺の雰囲気がいい」「まわりを、びっしりと住宅に囲まれ、奇跡的に保存されている感じだ」「そうだね、いつまでもこのままで在って欲しい」「歴史散歩の案内書を見よう」

「泰時が妻の母の供養のため寺を建てたのが始まりで、そのころは粟船御堂といわれた。泰時が1243年に亡くなると、ここに葬られた。宋の蘭溪道隆が鎌倉に来たとき、五代執権時頼がこの御堂に招いた。天台宗から禅宗に改められた。道隆は1253年建長寺ができるとその開山として移ったため、常楽寺は建長寺根本といわれる。仏殿裏に泰時の墓がある。山頂に木曾義高の墓があり、もとは近くに木曾塚があったのだろう」

「なるほど、建長寺や円覚寺、浄智寺など鎌倉禅宗五山の根本寺なのだ」「そのようだ」
「執権泰時の墓にしては、実に質素だ」「鎌倉にふさわしい感じ」「寺門をでて山の方に行こう」「けっこう広いなあ」「ほんと、裏は全部住宅だ」「人の営みはすごい」「そんな感じだね」「これが、義高の墓だ」「なるほど」「案内書を見よう」

「義高は人質として木曾から送られてきた。そのいきさつは平家物語にある。義仲が義経の鎌倉軍と戦って敗死したとき頼朝の命令で殺された。頼朝の長女・大姫の許婚だった。彼女はうつ病になって癒えることなく未婚のまま20歳で亡くなった。頼朝と政子は、何度も伊勢原の日向薬師(ひなたやくし)に詣でて祈願したが験(げん)がなかった」

「頼朝が伊豆蛭ガ小島に逼塞して先がみえない不安な暮らしのなかで生まれた子だから、ひとしお不憫だった」「そうだろう」「姫宮塚がある。泰時の娘の墓とあるが、大姫の墓という記もあるそうだ」「悲恋の二人を葬った塚が常楽寺の起源かも」「こちらの本には、政子が阿弥陀三尊を安置して仏殿を建立したのが始まりとある」「その説にひかれるね」「若い泰時が二人の霊を慰めるため別邸をつくって祀り、泰時の妻の母に住んでもらった。老いた政子が喜んで、何度も訪れた。泰時夫妻も晩年にはここに住み、没した。話の辻褄が合う」「それが、常楽寺の起源であり、鎌倉仏教の始まりか」「だろうね」

歩く:常楽寺近くの四つ角を南(鎌倉方面) JR横須賀線横の成福寺、厳島神社 西へ 向かって柏尾川へ  上流に向かって大船駅へ

「地図をみながら、小袋谷へ行き、成福寺、厳島神社を回って柏尾川へ出て、大船駅に戻ろう。たいした距離ではない」「そうか。おれは…」「はやく、ビールを飲みたいのだろう」「いや、その…」「厳島神社とか三島神社は船乗りが祀った神社だ。それが、ここにあるということは…おい、聞いているのか」「聞いてるよ、もうしばらくお預けだろう?」「聞いていない」