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鎌倉近郊を歩く10.与一の証菩提寺

2010-03-04 08:33:49 | Weblog
鎌倉近郊を歩く 10
           与一の証菩提寺



 源頼朝は柏尾川の支流・稲荷川(いたち川の中流)に大きな寺院を造り、25歳の若さで散った佐奈田与一義忠の霊を祀りました。与一は石橋山合戦(1180)で頼朝を逃がすため、長尾定景と組んで討ち死にしました。頼朝は毎月、参拝していたようです。のちに、証菩提寺といわれました。
 
歩く:JR大船駅 金沢八景行き、みどりが丘行きバスで「稲荷の森」下車 
JR港南台駅 バス1.2番乗り場から中野町経由で左回り「稲荷の森」下車

 平氏と奥州藤原氏を滅ぼして武士の棟梁となった頼朝は建久元年(1190)、石橋山の与一の墳墓の前に立って、人目も気にせず泣きました(吾妻鏡)。生涯、与一を不憫に思う気持ちは変わりませんでした。

 横浜市栄区の郷土史によると、寺院は「北は山手学院から、南は犬山町まで約1キロ平方の広さで、阿弥陀堂を中心に、7つのお堂があった」のだそうです。鎌倉の鬼門の方角にあたり、与一の魂魄(こんぱく)に護ってほしいという気持ちがあったのでしょう。

 4月初め、境内が桜の花に埋まります。本堂の後ろの階段を登ると、与一の父・岡崎義実(よしざね)の墓があります。すぐ上に鐘堂があり、広い墓地が拡がっています。一部が駐車場になっていますが、大木の桜が並んで満開の姿は豪華です。近所の人が静かに花見をしています。

 岡崎四郎義実は三浦の一族で、法名が証菩提。なにかと話題の多い直情直径の相模男で、若いときは強くて暴れん坊で三浦の悪四郎と呼ばれました。石橋山合戦のときは六十九歳でした。

 与一を討ち取った定景が囚われ、頼朝の前に引き出されました。頼朝は、義実に定景の処分をまかせました。義実は「明日、首を刎(はね)べき」と定景に言い渡しました。

 夜中、読経の声が聞こえてきました。「人を喚(よん)で、経の声するは何者が読むぞと問」はせると、囚人の定景だとわかりました。真っ暗やみの中で「出離生死 頓證菩提」と経を唱える声には、「今夜を限りと思ひける哀れさ」がこもっていました。

 たとえ定景を斬ったとて「与一再び生きかへるべからず」、かえって死者の冥福に差し障りがあるのではないか、と思い直しました。朝になって頼朝の前に出ると、昨夜からのことを話しました。

 「愚息の敵を誅戮を加えずんば鬱陶を散じ難」いけれど、この男を斬れば「罪業の基と成て、悪趣に沈候」。されば、「与一が孝養」に追放したく、その事が叶い難ければ「他人に仰て罪せらるべく候」と申し出ました。

 頼朝はしばらく考えていましたが、「誠に神妙なり、汝が痛申さんことを、我亦罪すべからず」と、義実の頼みを聞き入れ定景を許しました。義実は僧を呼んで定景の頭を剃ると、「与一が後世を弔てたべ」と袈裟(けさ)を着せて放ちました。

 長尾の子孫から長尾景虎こと上杉謙信がでました。謙信はどういうわけか、越後から鎌倉に来ています。関東管領・上杉の名跡が欲しかったといわれます。それもあるけれど、彼は義理堅い男だから、ここ、証菩提寺の義実の墓前に立ちたかったのではないか、と思います。

 桜の季節になると、吾妻鏡や源平盛衰記の一節が頭に浮かんで、証菩提寺で花見をさせてもらいます。稲荷川下流の次の橋(辺渕橋)元に、寺域の説明板があります。橋を渡って少し南に行くと矢沢掘小川アメニティで水車が回っていて、古道の名残をとどめる風景です。



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