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鎌倉近郊を歩く11.竜馬の妻おりょうの墓と軍艦三笠

2010-03-25 08:56:27 | Weblog
鎌倉近郊を歩く 11
            竜馬の妻おりょうの墓と軍艦三笠

                      (写真はクリックして見てください) 

 

 坂本竜馬が、また、NHKの大河ドラマになりました。よほど日本人好みの人物のようです。横須賀の信楽寺(しんぎょうじ)に竜馬の妻おりょうの墓があるということなので出かけてみました。

歩く:京浜急行浦賀行で大津駅下車、踏切を渡る 大津小学校前を入る(歩いて10分)

 おりょうは京都の町医者の娘で、たいへん美人でした。竜馬は土佐人で京都で暗殺されました。墓は霊山護国神社(京都東山)です。なぜ、おりょうの墓が京都ではなく横須賀にあるのか、それは、海軍とのエンがあったからに違いありません。

 信楽寺の門をくぐり、本堂左手奥に進むと細長い石が立てて置かれていました。すぐにおりょうの墓だとわかりました。墓石には「贈正四位下阪本龍馬之妻龍子之墓」とあります。横の説明板に、おりょうのことが詳しく書かれていました。おりょうさん祭りもあるそうです。

 要約すると、竜馬が近江屋で殺されたあと、各地を転々としたのち行商人西村松兵衛と再婚して、明治8年(1875)現在の市内米ケ浜の長屋に住み、明治39年(1906)亡くなるまで30年余を暮らしました。

 別の資料によると、松兵衛との間に一子をもうけましたがその生涯は「薄幸」だったとあります。竜馬の死後、「ただ生きただけ」という感じがしました。「西郷らに祝福され、薩摩まで西洋蒸気船で前代未聞の新婚旅行」の記憶を宝ものとして、死ぬ間際まで繰り返して思い出していたに違いありません。

 墓石は、海軍工廠が寄付したドック建設用のものだそうです。どういう人が、どういう経緯で墓をつくったのかも推察できます。竜馬は勝海舟のもとで神戸に海軍操練所を造り、西国の浪人に航海術を教えました。竜馬の亀山社中や海援隊が薩摩の船の操縦などを手伝いました。のちに海軍の薩摩といわれ、その草分けは海舟と竜馬なしでは語れません。

 歩く:大津駅から電車で横須賀中央駅 三笠公園 軍艦三笠

 黒船の到来で危機感を持った海舟と竜馬は、日本海軍の育成を念願としてその生涯を捧げました。軍艦三笠はイギリスのヴィッカース社製で排水量1万5千トン。薩摩の山本権兵衛が発注し、同じ薩摩の東郷平八郎が連合艦隊の旗艦長として乗り込み、明治38年(1905)ロシアのバルチック艦隊を迎え撃ちました。

 アメリカのボストンで独立戦争(~1783)を戦った艦船コンスティチューション号を見物したとき、現役の海軍士官がにこやかに握手をしてくれました。船舶大辞典に「現在、アメリカ海軍の籍にある一番古い船で、3年かけて修理した」とあります。

 なぜ、日本は、横須賀は、戦艦三笠を海に戻して防衛省の籍として、現役士官を配置しないのでしょうか。それで、税金のムダ使いという人は居ないでしょう。

 おりょうは横須賀で日露海戦の結果を見届けて、急いで海舟と竜馬に知らせるためこの世を去った、と思いました。


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