半年ぶりに「太平洋戦争の大嘘」に戻ってきました。
ただ昨年の終戦記念に放映されたNHKスペシャルに衝撃を受け
そのことをまず伝えなければならないという思いが消えません。
では昨年8月15日放映のNHKスペシャル
「開戦 太平洋戦争〜日中米英 知られざる攻防〜」を振り返ります。
このドキュメンタリーは蒋介石の15年に及ぶ膨大な日記や記録等
が新たに発掘され、NHKが独自に入手した英国・米国の一次資料
と日中の一次資料を突き合わせて、太平洋戦争開戦の真実を解明
しようとしたものです。
しかし小生は蒋介石に対して、あまりいい印象を持っていません
でした。蒋介石は軍閥の親玉程度の私利私欲の強い将軍で、
例えば南京での市民に対する暴虐の大半は蒋介石軍の兵士の
仕業と思っていますので、その規律の無さはそのまま蒋介石
の人間性を反映していると今まで思っていました。
ところが蒋介石がルーズベルトやチャーチルに送った書簡の
内容や日記、部下に送った電報等が紹介されると、卓越した
隻眼の持ち主であることが解ってきます。
NHKスペシャルは冒頭、次のように切り出します。
「これまで、日本とアメリカの関係を軸に検証されてきた「開戦に
至る道程」に、新たな光が当たろうとしています。近年、蔣介石が残
した膨大な日記や書簡などが相次いで公開されたことで、日本や
中国で、多角的な分析が進みました。そして、太平洋戦争開戦に、中
国が決定的な役割を果たしていたことが明らかになったのです」
「『一対一では日本に勝てないけども、第三国の力を利用できれば
日本に勝てる』というのが蔣介石の発想です。これがいわゆる蔣
介石の“国際的解決戦略”という発想」から、米国に対しては全米に
支部を持っていた、元国務長官スチムソンが名誉会長を務める
「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」に対して、2万ドル
を使ってロビー活動を展開します。そして一方で上海事変を仕
組んで日本軍を引き込み、日本側に2万人からの戦死者を出させ
ますが、上海市民の犠牲も20万人となり、「中国の民衆が犠牲
になっている」と世界に発信しましたが、米国は動きません。中
国の訴えによって開催された国際会議でも、日本に対する非難
声明は出されたものの、米国の制裁回避の主張で、他国もこれ
に同調して蒋介石の願望は打ち砕かれます。
しかし、上海事変で2万人の戦死者を出した日本は、ドイツを
介して、蒋介石も受け入れ可能な条件を用意して和平工作に乗
り出しますが、交渉の最中、関東軍が南京に進撃して南京を陥落
させると、世論が沸騰し、そして閣僚らが強気になって交渉の
条件を吊り上げろと近衛文麿首相に迫り、近衛はこれを了承して
しまいます。そして、より厳しい条件を蒋介石に提示して、結局
交渉は決裂してしまうのです。これによって日本は窮地に陥って
いた蒋介石を助けることになったとNHKは報じています。
蒋介石の日記
「もし日本が柔軟な条件を提示していれば、政府内で対立が起き、
動揺すると懸念していた。いまこのような過酷な条件を見て安
心した。我が国は、これを受け入れる余地はない。政府内で対立
が起こることもない」(1937年12月26日)
そして近衛首相は
「帝国政府は、爾後国民政府を対手(あいて)とせず」と声明を出し
て中国との交渉の道を自ら断ってしまうという愚策に走ってし
まう。このようにして蒋介石の路線へと乗せられて、日中戦争
の泥沼に嵌っていきます。
「蔣介石の日記を10年かけて精読した鹿教授。(中国人・大東文化大
教授)日本の外交戦略が、何度も中国の窮地を救っていたと指摘
します」
「蔣介石が国民政府の高官に宛てた命令書。プロパガンダに対
する考えが記されていました。
『1か月の10万米ドルの対米宣伝経費は惜しんではいけない。
現在の外交情勢を見ると、イギリスは深思熟慮の国であり、説
得が難しい。アメリカは世論を重視する民主国家であるため、
動かしやすい。世論が同意し、国会も賛同するならば、大統領
は必ず行動する』」
その言葉通り
「アメリカは・・・・1939年7月、日米通商航海条約の破棄
を通告。日本への経済制裁をちらつかせたのです。スティムソ
ン委員会などによって、中国の惨状を伝えられていたアメリ
カ市民の8割以上が、この経済政策の転換に賛成しました」
このようにして米国の世論は反日へと傾いていきます。
1940年9月27日。
「実はこの半年ほど前。蔣介石は、最大の危機に陥っていまし
た。 「このニュース(日独伊三国同盟)が事実であれば、我が抗日
戦の困難はまた一つ減ったことになる。人知の及ばない、まさ
に神の助けである」(蔣介石日記1940年9月27日)」
「ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、1940年に入るとナチ
スドイツの圧倒的な攻勢によって、ヨーロッパ諸国のアジア
権益をめぐる状況が激変しました。援蔣ルートと呼ばれる中
国への支援経路が断たれ、蔣介石は持久戦の維持が困難にな
ったのです。
そうした中で日本が選択したのが、日独伊三国軍事同盟でした。
三国同盟によって、国際社会における中国の価値は高まると見
た蔣介石。部下に送った電報にその考えが記されています。
「日本は独伊と互いに利用しあおうとしたが、実際の効果は得
がたく、却って自身の孤立を深め、危機を招くのだ。日本が手
に入れたのは、有名無実の同盟関係だけで、反対に中国は強大
な戦友を獲得したのだ」
「日本の三国同盟締結に活路を見出した蔣介石。このとき展開
したのが、老練な外交戦略でした」
その外交戦略で英米を引き込み、日本を長期戦に引きずり込
んでいきます。
そうとも知らない日本は、自ら破滅への道を選択して行くの
です。
「結局、近衛内閣は、蔣介石との交渉継続ではなく、陸軍が既
成事実化していた、汪兆銘政権の承認を選択しました。
日中戦争勃発から4年。1941年7月。日本は、中国との持久戦を
維持するために、天然資源の確保を狙った軍事行動を開始しま
す。アメリカの対日石油全面禁輸を招いた「南部仏印進駐」でし
た」
「1941年11月・・・米国の暫定協定案の詳細を聞いた蔣介石
は・・・チャーチルに宛てた電報・・。戦況悪化を過大に伝
えることで、イギリスの介入を引き出そうとしていました。
・・・このとき、太平洋戦争開戦へと歴史の歯車を回したのは、
イギリスの首相、ウィンストン・チャーチルでした。・・・チ
ャーチルはルーズベルトに電報を送り、暫定協定案への懸念を
伝えていました。
「・・・ただ一つの懸念は中国です。もし中国が崩壊すれば、
我々の直面する危機はさらに大きくなるでしょう」(1941年
11月26日)
チャーチルが恐れていたのは日本が交渉条件をのむことで、
アメリカが開戦に踏み切らないことだったと言います。ナ
チス・ドイツと厳しい戦いを強いられていたイギリスにと
って、アメリカの参戦は勝利の絶対条件だったのです。
最終的にアメリカは、日本に妥協的な暫定協定案を破棄。改
めて、交渉に応じる条件を示しました。そこでは、中国からの
日本軍のすべての撤退が条件とされ、交渉の過程で示されて
いた日本の立場を理解する言葉も一切なくなっていました。
そしてこの条件を、日本は最後通牒と受け取ったのです。
甚大な死傷者を出しながら、日中戦争の国際化を達成した蔣
介石。開戦(真珠湾攻撃)のまさにその日の日記です。
「本日、我が国の抗日戦略の成果は頂点に達した。しかし、物
事は極まれば必ず反す。警戒しなくてはならない」
(蔣介石日記1941年12月8日)
ところどころ省きながらの長い引用となりましたが、これで
ハル・ノートが届く前に、日本政府は米国の暫定協定案破棄
後に提示された条件を「最後通牒」と受け取っていたことが
判明しました。
そして藤井氏の「太平洋戦争の大嘘」で主張する太平洋戦争
開戦の真相は、スターリンやルーズベルトが誘導したのでは
なく、日本を戦略に乗せた蒋介石だったのです。
日本政府に対しては
この先のブログ「yahoo知恵袋 ハルメートの質問に答える」
をご参照ください。
ただ昨年の終戦記念に放映されたNHKスペシャルに衝撃を受け
そのことをまず伝えなければならないという思いが消えません。
では昨年8月15日放映のNHKスペシャル
「開戦 太平洋戦争〜日中米英 知られざる攻防〜」を振り返ります。
このドキュメンタリーは蒋介石の15年に及ぶ膨大な日記や記録等
が新たに発掘され、NHKが独自に入手した英国・米国の一次資料
と日中の一次資料を突き合わせて、太平洋戦争開戦の真実を解明
しようとしたものです。
しかし小生は蒋介石に対して、あまりいい印象を持っていません
でした。蒋介石は軍閥の親玉程度の私利私欲の強い将軍で、
例えば南京での市民に対する暴虐の大半は蒋介石軍の兵士の
仕業と思っていますので、その規律の無さはそのまま蒋介石
の人間性を反映していると今まで思っていました。
ところが蒋介石がルーズベルトやチャーチルに送った書簡の
内容や日記、部下に送った電報等が紹介されると、卓越した
隻眼の持ち主であることが解ってきます。
NHKスペシャルは冒頭、次のように切り出します。
「これまで、日本とアメリカの関係を軸に検証されてきた「開戦に
至る道程」に、新たな光が当たろうとしています。近年、蔣介石が残
した膨大な日記や書簡などが相次いで公開されたことで、日本や
中国で、多角的な分析が進みました。そして、太平洋戦争開戦に、中
国が決定的な役割を果たしていたことが明らかになったのです」
「『一対一では日本に勝てないけども、第三国の力を利用できれば
日本に勝てる』というのが蔣介石の発想です。これがいわゆる蔣
介石の“国際的解決戦略”という発想」から、米国に対しては全米に
支部を持っていた、元国務長官スチムソンが名誉会長を務める
「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」に対して、2万ドル
を使ってロビー活動を展開します。そして一方で上海事変を仕
組んで日本軍を引き込み、日本側に2万人からの戦死者を出させ
ますが、上海市民の犠牲も20万人となり、「中国の民衆が犠牲
になっている」と世界に発信しましたが、米国は動きません。中
国の訴えによって開催された国際会議でも、日本に対する非難
声明は出されたものの、米国の制裁回避の主張で、他国もこれ
に同調して蒋介石の願望は打ち砕かれます。
しかし、上海事変で2万人の戦死者を出した日本は、ドイツを
介して、蒋介石も受け入れ可能な条件を用意して和平工作に乗
り出しますが、交渉の最中、関東軍が南京に進撃して南京を陥落
させると、世論が沸騰し、そして閣僚らが強気になって交渉の
条件を吊り上げろと近衛文麿首相に迫り、近衛はこれを了承して
しまいます。そして、より厳しい条件を蒋介石に提示して、結局
交渉は決裂してしまうのです。これによって日本は窮地に陥って
いた蒋介石を助けることになったとNHKは報じています。
蒋介石の日記
「もし日本が柔軟な条件を提示していれば、政府内で対立が起き、
動揺すると懸念していた。いまこのような過酷な条件を見て安
心した。我が国は、これを受け入れる余地はない。政府内で対立
が起こることもない」(1937年12月26日)
そして近衛首相は
「帝国政府は、爾後国民政府を対手(あいて)とせず」と声明を出し
て中国との交渉の道を自ら断ってしまうという愚策に走ってし
まう。このようにして蒋介石の路線へと乗せられて、日中戦争
の泥沼に嵌っていきます。
「蔣介石の日記を10年かけて精読した鹿教授。(中国人・大東文化大
教授)日本の外交戦略が、何度も中国の窮地を救っていたと指摘
します」
「蔣介石が国民政府の高官に宛てた命令書。プロパガンダに対
する考えが記されていました。
『1か月の10万米ドルの対米宣伝経費は惜しんではいけない。
現在の外交情勢を見ると、イギリスは深思熟慮の国であり、説
得が難しい。アメリカは世論を重視する民主国家であるため、
動かしやすい。世論が同意し、国会も賛同するならば、大統領
は必ず行動する』」
その言葉通り
「アメリカは・・・・1939年7月、日米通商航海条約の破棄
を通告。日本への経済制裁をちらつかせたのです。スティムソ
ン委員会などによって、中国の惨状を伝えられていたアメリ
カ市民の8割以上が、この経済政策の転換に賛成しました」
このようにして米国の世論は反日へと傾いていきます。
1940年9月27日。
「実はこの半年ほど前。蔣介石は、最大の危機に陥っていまし
た。 「このニュース(日独伊三国同盟)が事実であれば、我が抗日
戦の困難はまた一つ減ったことになる。人知の及ばない、まさ
に神の助けである」(蔣介石日記1940年9月27日)」
「ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、1940年に入るとナチ
スドイツの圧倒的な攻勢によって、ヨーロッパ諸国のアジア
権益をめぐる状況が激変しました。援蔣ルートと呼ばれる中
国への支援経路が断たれ、蔣介石は持久戦の維持が困難にな
ったのです。
そうした中で日本が選択したのが、日独伊三国軍事同盟でした。
三国同盟によって、国際社会における中国の価値は高まると見
た蔣介石。部下に送った電報にその考えが記されています。
「日本は独伊と互いに利用しあおうとしたが、実際の効果は得
がたく、却って自身の孤立を深め、危機を招くのだ。日本が手
に入れたのは、有名無実の同盟関係だけで、反対に中国は強大
な戦友を獲得したのだ」
「日本の三国同盟締結に活路を見出した蔣介石。このとき展開
したのが、老練な外交戦略でした」
その外交戦略で英米を引き込み、日本を長期戦に引きずり込
んでいきます。
そうとも知らない日本は、自ら破滅への道を選択して行くの
です。
「結局、近衛内閣は、蔣介石との交渉継続ではなく、陸軍が既
成事実化していた、汪兆銘政権の承認を選択しました。
日中戦争勃発から4年。1941年7月。日本は、中国との持久戦を
維持するために、天然資源の確保を狙った軍事行動を開始しま
す。アメリカの対日石油全面禁輸を招いた「南部仏印進駐」でし
た」
「1941年11月・・・米国の暫定協定案の詳細を聞いた蔣介石
は・・・チャーチルに宛てた電報・・。戦況悪化を過大に伝
えることで、イギリスの介入を引き出そうとしていました。
・・・このとき、太平洋戦争開戦へと歴史の歯車を回したのは、
イギリスの首相、ウィンストン・チャーチルでした。・・・チ
ャーチルはルーズベルトに電報を送り、暫定協定案への懸念を
伝えていました。
「・・・ただ一つの懸念は中国です。もし中国が崩壊すれば、
我々の直面する危機はさらに大きくなるでしょう」(1941年
11月26日)
チャーチルが恐れていたのは日本が交渉条件をのむことで、
アメリカが開戦に踏み切らないことだったと言います。ナ
チス・ドイツと厳しい戦いを強いられていたイギリスにと
って、アメリカの参戦は勝利の絶対条件だったのです。
最終的にアメリカは、日本に妥協的な暫定協定案を破棄。改
めて、交渉に応じる条件を示しました。そこでは、中国からの
日本軍のすべての撤退が条件とされ、交渉の過程で示されて
いた日本の立場を理解する言葉も一切なくなっていました。
そしてこの条件を、日本は最後通牒と受け取ったのです。
甚大な死傷者を出しながら、日中戦争の国際化を達成した蔣
介石。開戦(真珠湾攻撃)のまさにその日の日記です。
「本日、我が国の抗日戦略の成果は頂点に達した。しかし、物
事は極まれば必ず反す。警戒しなくてはならない」
(蔣介石日記1941年12月8日)
ところどころ省きながらの長い引用となりましたが、これで
ハル・ノートが届く前に、日本政府は米国の暫定協定案破棄
後に提示された条件を「最後通牒」と受け取っていたことが
判明しました。
そして藤井氏の「太平洋戦争の大嘘」で主張する太平洋戦争
開戦の真相は、スターリンやルーズベルトが誘導したのでは
なく、日本を戦略に乗せた蒋介石だったのです。
日本政府に対しては
この先のブログ「yahoo知恵袋 ハルメートの質問に答える」
をご参照ください。