2008年の記事を書いたものの実は理解していないことを弟弁に教えられて野矢本を読み直す。
【キーワード】実在論的(神の立場)/反実在論的(人間の立場)、真理/証明可能性
古典論理の意味論は「真理」を中心に作られており、「われわれの認識がどうであろうと、世界の在り方は(認識とは独立に)決まっている」との実在論的態度を取る。したがって、「Pの真偽が証明されていなくても、それとは無関係に<Pが真>か<notPが真>のいずれかだ」という排中律が認められる(※排中律の関係では、他に言葉の曖昧さから真偽が決められないという問題もある。例「彼は勇気がある」。ここでは無視する。)。古典論理からは、例えば次のように言われる。
・notPと仮定して推論をしたら矛盾になってしまった。ところで、PかnotPのいずれかだ。そしてnotPでない以上、Pが帰結される。【否定除去型の背理法】
・πは「無限小数という存在」である。今のところ、πの中で「7が10回連続して現れる」部分は見つかっていない。ただ、現時点で証明されていようがいまいが、「連続して現れる」か「現れない」かどちらかだ。【実無限】
これに対し、直観主義論理は「証明可能性」を中心概念とする。実在論的態度に対し、その精神は「われわれの証明したもののみが存在を認められる」という反実在論的態度。命題論理の公理系LPの規則と比べると、「否定除去則:not(notP)からPを導出してよい」を除いたものが直観主義論理の公理系LIPとなる(その代わりに、「PかつnotPからは任意のDを導出してよい」との定理を規則に格上げする)。
・notPと仮定して推論をしたら矛盾になってしまった。だから「notPではない」と結論するのはよい。しかしPそのものは証明されていない以上、「notPでない以上、P」というのは間違い。【否定除去型の背理法の否定】
・「πは無限小数という存在だ」というのがそもそもの誤解。πは小数展開を作り出す規則にすぎないから、いまだ展開されていない先は存在すらしていない。存在してないものに対して「7が10回連続して現れるか否か」と問うのはナンセンス。【可能無限】
野矢茂樹『論理学』[1994]pp163-8
野矢茂樹『無限論の教室』[1998]pp161-79
野矢茂樹『入門!論理学』[2006]pp46-64
追記(2016-7-21):西田吾郎『わかっているようでわからない数と図形と論理の話』[2016]pp86-90,201-5も参照。pp89-90には「哲学の世界では、実無限、可能無限に関する議論は盛んなようですが、数学ではほとんどの数学者は無関心です。…何よりも、実数の存在なくしてはほとんどの実際上の数学が成り立たないと考えるからです。」とある。