国際通貨制度の歴史

2021-08-05 04:55:56 | 金融・経済学・IT

[戦前の国際金本位制と挫折]

・1844年、イングランド銀行が金と交換可能な兌換紙幣を発行した(金本位制)。各国は、派遣国のポンドと自国通貨を紐づけるため、金本位制を採用するとともに、金の輸出入を自由化した(国際金本位制)。日本も1897年に貨幣法を施行して国際金本位制に参加した。□橋本ほか67-8、横山89-9

・当時の古典派経済学では、国際金本位制の下で価格メカニズムが働くことが期待されていた。すなわち、A国が貿易赤字国、B国が貿易黒字国とすると、A国からB国へ金に裏付けられた自国通貨が渡される。これにより、A国内では「金準備量が減る→通貨量が減る→デフレを招く→輸出品価格が下がるので国際競争力が高まる→貿易格差が解消される」というメカニズムである。もっとも、B国内では通貨量を増やさない介入(不胎化介入)によってインフレ抑制ができるので、この逆(輸出品価格の上昇)が起こるとは限らない。□横山91-3

・第一次世界大戦の膨大な戦費を通貨発行で調達する必要が生じたため、各国は国際金本位制から離脱した。日本も、1917年に金輸出を禁止した。□橋本ほか68、横山93

・大戦後の各国は、1925年に国際金本位制へ復帰した。他方の日本は、1920年の株価大暴落(瓦落(がら))、1923年の関東大震災、1927年の金融恐慌を迎えて、復帰のタイミングを失っていた。1929年に成立した濱口雄幸内閣は、井上準之助蔵相のもと、貿易赤字を解消するために金輸出解禁(旧平価解禁)を断行した。□橋本ほか68、横山93-103

・1929年の大恐慌を契機として金保有量に依存した金本位制度の維持は難しく、1931年9月にイギリスが国際金本位制から再離脱し、各国は管理通貨制度へと移行した。日本でも犬養毅内閣の高橋是清蔵相が再離脱を表明した。この制度の元では金保有量と無関係に通貨が発行された。□橋本ほか68、横山108-111

・管理通貨制度へと移行した1930年代のイギリスを始めとする各国は、輸出を拡大するために為替相場を切り下げる方向で変動させ、かつ、輸入を抑制するために関税を設定した(ブロック経済)。□藤木222、中西164

 

[ブレトンウッズ体制(IMF体制)]

・第二次世界大戦中の1944年、アメリカのニューハンプシャー州ブレトンウッズにおいて、連合国44か国による会議が開かれ、国際通貨体制を支える機関として、短期的な資金を援助する「国際通貨機関(International Monetary Fund)」、長期的な資金を援助する「国際開発銀行(International Bank for Restructuring and Development)」の設立が決まった。この新しい通貨体制(ブレトンウッズ体制)は、1945年12月に29か国の参加によって開始した。IMF発足の理論的背景として、各国の間でケインズ主義的市場介入の必要性が共通の合意となっていた。□橋本ほか68-9、新川ほか32-3

・ブレトンウッズ体制においては、アメリカが圧倒的な経済力を誇り、かつ、世界中の金の約半分が集中していることを背景にして、ドルが基軸通貨となった(IMFの発足にあたり、アメリカはドルが基軸通貨となることに消極的だった)。すなわち、アメリカ以外の各国は自国通貨を「1ドル=○○単位」という平価で表示し、為替レートの変動を平価のプラスマイナス1%以内に維持することとなった(固定相場制度:レートの変更にはIMFの了解を要する)。各国の中央銀行からの兌換要求に応じて、アメリカが「金1オンス=35ドル」の交換率によって金とドルを交換することが保証された(金・ドル本位制)。□橋本ほか68-9、藤木222、中西168

・冷戦開始に伴い、アメリカは体制維持コストを進んで負担するようになり、加盟国に自国市場を積極的に開放した。日本は1952年にIMFへの加盟を許され、「1ドル=360円」との固定為替レートが採用された。□橋本ほか69、藤木222、中西168-9

・1960年代に入ると、アメリカはベトナム戦争への巨額な軍事支出と、ジョンソン大統領による「偉大な社会(Great Society)」計画による負担を強いられ、財政は悪化した。1971年には貿易収支が初めて赤字となったが、貿易赤字の背景には西ドイツと日本の貿易黒字があった。西ドイツは貿易黒字を減らすためにマルクの為替相場を2回切り上げたが、日本は特段の措置(円切り上げorインフレ政策)を取らなかった。□藤木222、橋本ほか69、原150

 

ブレトンウッズ体制の崩壊

・金・ドル本位制は、保有量がさして変わらない金を担保にドルを発行するものだが、経済規模の拡大に応じてドルの発行量は増大していくという矛盾を抱えていた。1971年8月、アメリカのニクソン大統領が、ドルと金の兌換停止を発表した(ニクソン・ショック)。ニクソンは、輸入品に一律10%の輸入課徴金をかける方針も発表した。□橋本ほか69、藤木223、中西178、原150

・同じ年の1971年12月、ワシントンで多角的通貨調整交渉が行われ、各国は、ドルの切り下げ(各国通貨の切り上げ)と変動幅を拡大した固定相場制度に合意した(スミソニアン体制)。日本に対する切上げ要求がもっとも強く、円は「1ドル=308円」と切り上げられた。□藤木223、原151

・スミソニアン合意を経ても為替の安定には至らず、ドルが再び大量に売られる事態が生じて市場は大混乱し、スミソニアン体制は1年余りで崩壊した。結局、1973年までに、日本(1973年2月14日から)を含む各国のほとんどが固定相場制度を捨てて変動相場制度へ移行した。□橋本ほか69、新川ほか58、中西179、日経203-4

 

[1973年以降]

・1976年1月、ジャマイカのキングストンでIMFの暫定委員会が開かれて、変動相場制度が正式に承認された(キングストン合意)。これにより、各国は自由に為替相場制度を決定できるようになった。□藤木223、橋本ほか69

・変動相場制度は正式に1978年から発効した。変動相場制度は、市場での通貨の需給によって為替レート(交換比率)が決まるものであるため、例えば「日本国内での貿易収支赤字(輸入超過)→輸入代金支払のためドル買い需要が増加→円安ドル高に移行→輸入が抑制されて輸出が拡大する」というように自動的な調整機能が期待された。□橋本ほか69

・ところが、財の貿易取引を超えて資本取引が活発になってくると、為替レートが必ずしも貿易収支を均衡させない状況(短期的に予測できない方向に大きく振れるvolatility、中期的にファンダメンタルズと適合しないmisalignment)が生じた。特に1980年代のアメリカでは、貿易赤字にもかかわらずドル高が続いた。□藤木223、橋本ほか69、日経204

・1985年9月、ニューヨークのプラザホテルにおいて、5か国(アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツ、日本)の財務大臣・中央銀行総裁会議(G5)が開催され、各国が強調して外国為替市場に介入することで「マルク高ドル安」「円高ドル安」へと為替相場を誘導することが合意された(プラザ合意)。このプラザ合意により、1年程度の間に、円の名目為替レートは「1ドル=250円程度→150円程度」へと大幅に切り上げられた。□藤木223、橋本ほか69、新川ほか59

・プラザ合意の翌1986年からは、イタリアとカナダも加わった7か国財務大臣・中央銀行総裁会議(G7)が定期的に開催され、各国の協調行動が制度化されていった。□新川ほか59

・日本政府(財務大臣→日本銀行)は、円高是正のために円売り・ドル買いという為替介入(外国為替平衡操作)を行ってきた。直近の介入は2011年11月のものである。□日経205-6

 

原康「戦後の日米経済関係」細谷千博・本間長世編『日米関係史〔新版〕』[1991]

中西寛『国際政治とは何か』[2003]

新川敏光・井戸正伸・宮本太郎・眞柄秀子『比較政治経済学』[2004]

橋本優子・小川英治・熊本方雄『国際金融論をつかむ』[2007]

藤木裕『入門テキスト金融の基礎』[2016]

日本経済新聞社編『金融入門〔第3版〕』[2020]

横山和輝『日本金融百年史』[2021]

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