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ポツダム宣言の受諾

2016-08-15 16:58:46 | 政治史・思想史

1945(昭和20)年5月7日にドイツが降伏し、残るはアジア太平洋戦線のみとなった。翌5月8日、アメリカ合衆国大統領トルーマンは日本に対して降伏を勧告する。

6月8日、御前会議で本土決戦が正式に決定された。もっとも昭和天皇は本土決戦に敗北すると考えており、6月下旬には降伏条件が大幅に低下した。

6月22日、天皇の発意で秘密御前会議が開かれ、天皇は軍事と並行して外交をおこなうよう指示した。

7月13日、鈴木貫太郎内閣は、日ソ中立条約を締結していたソ連に和平の仲介を申し入れた。ところが、日ソ中立条約が翌1946(昭和21)年4月まで有効にかかわらず、この時点でソ連はアメリカに対して対日参戦を約束していた。ソ連は、ポツダム会談を理由に回答を引き延ばした。ポツダムの地でスターリンは「日本を安心させて眠りに誘って」おきたいと語っている。

7月17日から8月2日にかけて、ドイツ敗北後のヨーロッパ問題を話し合う目的でポツダム会談が開かれた。直前の7月16日にはアメリカ国内で原爆実験が成功し、その知らせは直ちにポツダムのトルーマンに届けられた。

 

7月26日、アメリカ合衆国大統領・中華民国政府主席・グレートブリテン総理大臣の連名にて「日本国に対し今次の戦争を終結するの機会を与ふるため」の米英支三国宣言(ポツダム宣言 ※英文はこちら)が発表された。実際にポツダム(ベルリン郊外)で会談したのは米(トルーマン)・英(チャーチル→会談中に政権交代があってアトリーに交代)・ソ(スターリン)の3国であり、中華民国は会談に加わっていなかった。宣言の作成はアメリカが主導した。前駐日大使であったグルー国務次官は天皇制存続を条件に早期降伏へ導くことを主張し、スティソン陸軍長官の理解を得た。しかしバーンズ国務長官らがこれに反対した結果、宣言に「天皇制容認」は明記されなかった。

(1)吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及びグレート・ブリテン国総理大臣は、吾等の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し今次の戦争を終結するの機会を与ふることに意見一致せり。

(2)合衆国、英帝国及び中華民国の巨大なる陸、海、空軍は、西方より自国の陸軍及び空軍に依る数倍の増強を受け、日本国に対し最後的打撃を加ふるの態勢を整へたり。右軍事力は、日本国が抵抗を終止するに至る迄、同国に対し戦争を遂行するの一切の連合国の決意に依り支持せられ且つ鼓舞せられ居るものなり。

(3)蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益且つ無意義なる抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。現在、日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対し適用せられたる場合に於て全ドイツ国人民の土地、産業及び生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し、測り知れざる程更に強大なるものなり。吾等の決意に支持せらるる吾等の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且つ完全なる壊滅を意味すべく、又同様、必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。

(4)無分別なる打算に依り日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的助言者に依り日本国が引続き統御せらるべきか、又は、理性の経路を日本国が履むべきかを、日本国が決意すべき時期は到来せり。

(5)吾等の条件は左の如し。

吾等は右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。吾等は遅延を認むるを得ず。

(6)吾等は、無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至る迄は、平和、安全及び正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるを以って、日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力は、永久に除去せられざるべからず。

(7)右の如き新秩序が建設せられ、且つ、日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至るまでは、聯合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は、吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保するため占領せらるべし。

(8)カイロ宣言の条項は履行せらるべく、又、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。

(9)日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し平和的且つ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし。

(10)吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加へらるべし。日本国政府は、日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし。

(11)日本国は、其の経済を支持し且つ公正なる実物賠償の取立を可能ならしむるが如き産業を維持することを許さるべし。但し、日本国をして戦争の為再軍備を為すことを得しむるが如き産業は此の限りに在らず。右目的の為、原料の入手(其の支配とは之を区別す)を許可さるべし。日本国は、将来、世界貿易関係への参加を許さるべし。

(12)前記諸目的が達成せられ、且つ、日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立せらるるに於ては、聯合国の占領軍は直ちに日本国より撤収せらるべし。

(13)吾等は、日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、且つ、右行動に於ける同政府の誠意に付き適当且つ充分なる保障を提供せんことを、同政府に対し要求す。右以外の日本国の選択は迅速且つ完全なる壊滅あるのみとす。

 

ポツダム宣言を受信した日本政府は、ソ連が加入していないこと・天皇制に関する言及がないことに注目した。先行する新聞報道につづき、7月28日、鈴木首相が「政府としては何ら重大な価値ありとは考えない。ただ黙殺するだけである」と失言したと言われている。

 

8月6日午前8時15分、広島に原爆が投下された。

翌7日、陸軍大臣阿南惟幾と外務大臣東郷茂徳が懇談し、阿南は長期戦に自信がないことを暗に認めた。

8日、ソ連のモロトフ外相は駐ソ大使佐藤尚武に戦争状態に入ると通告した。

9日未明、160万のソ連兵がソ満国境から満州に進撃した。日ソ中立条約にかかわらずソ連参戦は時間の問題とみられていたとはいえ、この時期での参戦は陸軍首脳部にショックを与えた。午前10時30分から最高戦争指導会議が開かれたが、直後の午前11時02分、長崎に原爆が投下された。午後には臨時閣議が2度開かれた。

10日午前0時03分、第1回御前会議が開かれた。阿南陸相、参謀総長梅津美治郎、軍令部総長豊田副武の3名は、降伏のために最低でも「国体護持」「自主的武装解除」「自主的戦犯処罰」「保障占領拒否」の4条件が必要だと主張した。これに対し、海軍大臣米内光政、東郷外相、枢密院議長平沼麒一郎は、「国体護持」のみでポツダム宣言を受諾すべきだと主張した。午前2時頃、進行役の鈴木首相が立ち上がって天皇に意見を求めた。天皇は、外相案に賛成する「聖断」をした。

10日早朝、日本政府は連合国に対し、「天皇の国家統治の大権 the prerogatives of His Majesty as a sovereign ruler」を変更しないことを条件としてポツダム宣言の受諾を申し入れた。この文言を主導したのは平沼だった。

12日午前0時45分、サンフランシスコ放送は連合国の回答を放送した;(1)降伏後の天皇・日本政府の国家統治の権限は連合国政府の「制限の下 subject to」に置かれる、(2)最終的な日本国政府の形態は日本国民の自由に表明された意思によって決定される。他方、天皇の処遇には正面から触れられなかった。

13日夕方、米軍機によって降伏勧告ビラが東京上空に巻かれた。このビラには、日本側申入れと連合国回答文が印刷されていた。

14日午前8時30分、天皇は米軍ビラを読み、陸軍のクーデターが起こると直感した。天皇はすぐに鈴木首相を呼び御前会議の開催を指示した。午前11時02分、第2回御前会議が開かれた。阿南らが連合国回答に対する反対意見を述べたが、天皇は涙を流し、二度目の「聖断」として受諾の意見を述べた。同日、回答文を受諾する旨が連合国に通告された。

15日には、「アメリカ国務長官→在米スイス公使→スイス外務次官→在スイス日本公使」というルートで、「14日通告を、ポツダム宣言と連合国回答の完全な受諾と認める」旨が日本に伝えられた。

 

9月2日、東京湾内に停泊したアメリカ戦艦ミズーリ号において、降伏文書の調印式がおこなわれた。この降伏文書には、ポツダム宣言と連合国回答の内容が織り込まれた。日本側は、天皇及び日本政府の代表として重光外相、日本帝国大本営の代表として梅津参謀総がそれぞれ署名した。続いて連合国最高司令官マッカーサー、アメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランド各国代表が署名した。

 

大石眞『日本憲法史〔第2版〕』[2005]pp319-26

五百旗頭真編『戦後日本外交史〔新版〕』[2006]pp22-9,34-5 〔五百旗頭真〕

安念潤司ほか編著『論点日本国憲法』[2010]pp8-9〔安念潤司〕

鳥海靖『もういちど読む山川日本近代史』[2013]pp252-6

『山川 詳説世界史図録』[2014]pp238-9

☆筒井清忠編『昭和史講義』[2015]pp247-64〔鈴木多聞〕

☆筒井清忠編『昭和史講義2』[2016]pp287-304〔楠綾子〕,305-18〔石井修〕

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