古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

沼川姫(ぬなかわひめ)のふるさとを訪ねて 2016年8月8日 新潟県糸魚川市

2016年08月22日 18時17分15秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
古代出雲王国 第八代副王 八重波津身(記紀では事代主と書換えられました)の后の一人
越の国からお嫁に来られた「沼川姫」のふるさとを訪ねました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
紀元前3世紀末、つまり紀元前220年頃に古代出雲王国の五十猛海岸へ沢山の海童たちと共に
上陸した 秦国人徐福は 前もって出雲王国に潜入させていた部下の穂日(今の出雲大社宮司の祖先)
に命じて 出雲王国の主王(役職名は大名持ち、本名八千矛)と副王(役職名を少彦、本名八重波津身)
を相次いで 幽閉殺害します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※八千矛(記紀では大国主と書換えられた)と八重波津身(記紀では事代主と書換えられた)
が幽閉されて殺害された、猪目洞窟と志津の窟を尋ねた記録は このブログの15番の記事
2013年3月18日の記事に載せています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
徐福、その部下穂日、穂日の息子夷鳥(ひなどり)や海童たちに幽閉殺害された
八重波津身副王(記紀では事代主と書換えられました)の后の一人活玉依り姫は皇子の奇日方(くしひかた)
を連れて実家の三島(今の大阪府三島郡島本町)に帰ります。

そして奇日方は大勢の出雲族とともに葛城(今の奈良県御所市)に移住し登美家を名乗ります。

そして 同じく徐福や穂日らに幽閉殺害された 八千矛王(記紀では大国主と書換えられました)の皇子 
味鋤高彦(あじすきたかひこ)も大勢の出雲族を引き連れて葛城南部に移住し 高鴨家を名乗ります。

一方出雲族に遅れて大和入りした徐福の孫の天の村雲たち秦国からの渡来グループはヤマトで強大な勢力となります。
そこで 出雲王族の二人、味鋤高彦と奇日方は ともに天の村雲が初代大和大王になるのを助けて支持します。

初代大和大王(おおきみと呼ばれていました。天皇と呼ばれたのは天武から後のことです。)の皇后となったのが
奇日方の妹「踏鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)」です。そして生まれたのが皇子の「沼川耳(ぬなかわみみ)」
で二代目大和大王となります。

※ 記紀は天の村雲の名前を消して「神武」という名を作りますが 二代目の沼川耳、三代目の玉手看などは
そのまま記紀に掛かれています。しかしイクメ大王(垂仁)前後からはむちゃくちゃになります。
このブログの記事でも詳しく取り上げて訪ねています。

一方もう一人の后の沼川姫は皇子の建御名方(タテミナカタ)を連れて実家の越の国、今の糸魚川に帰ります。
建御名方は その後大勢の越の人や出雲族を連れて諏訪盆地へ移住し諏訪地方の開拓に成功します。
そして後建御名方(タテミナカタ)は諏訪地方で絶大な尊敬を集めます。そして沼川姫も。

諏訪大社の主祭神 はもちろん建御名方(タテミナカタ)と 母親の沼川姫です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※ 記紀の製作者の持統女帝や不比等たち徐福の末裔たちは 諏訪の人たちから絶大な尊敬を集めた
タテミナカタの命が気に入らなかったらしく、記紀では 「出雲へ国譲りの交渉に出かけたタテイカヅチ
なる荒武者と 出雲の王子 建御名方(タテミナカタ)が力比べをして タテミナカタは負けて諏訪湖へ逃げ延びて
「ここから一生出ないからゆるしてくれ」と命乞いをしたと書きました。

ほんま支那人の末裔たち(大和王朝とそれを千年に渡り支え続けた藤原一族)は 諏訪の人たちにも 
出雲の人たちにも失礼千万な スケールの小さな奴らなのです。

自分たちが渡来人の征服王朝で出雲王朝を倒して出来た支配階級だという事を徹底して隠すため 
自分たちの祖先は天上世界から神様が地上に使わした神の子の子孫だなんて でっち上げて 
人民から尊敬されようとしたのですねえ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

沼川(ぬなかわ)神社は前もって調べましたが、実際に糸魚川市にいくと道が分からなくて、何人もの人に
聞きましたが 皆さん「沼川神社」をご存じなくて苦労しました。

地図の市役所の隣に「天津神社」がありますが、沼川神社はその境内にありました。
しかも 糸魚川市の教育委員会などが 沼川姫の名前を卑字で書き直しているものだから
よけい分かりませんでした。

自分たちの祖先の名前をあんな卑字で書換えては絶対にいけません。

自分たちは世界で一番偉いのだと言い張り、自分たちこそ世界の中心だと 中華思想を作り上げ
自分たち中華族の周りの人たちを蔑んで卑字で書いたり、動物の字を当てはめるのは 
支那人のすることです。

教養ある日本人はそんな支那人のまねをしてはいけません。和国やヒミコの字を未だに
ありがたがって卑字で書き続けている歴史学者がいます。
馬鹿ですねえ。もう支那人たちに ゴマすりする必要は無いのに。

糸魚川市教育委員会も もっと自分たちの祖先に誇りを持ち、日本人のルーツ古代出雲族を
勉強しなくてはいけませんね。あんな卑字を堂々と使ったり 後で述べますが 建物の建て方や
付属部材の千木を間違えたり ひどいもんです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

結果的に 帰りに見つけた神社の表参道です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

市内のあちこちで 沼川神社を聞いても誰も知ってる人がいなくて、困り果てていましたが 最後に聞いた人、
近くのコンビニで買い物をしていた親切なおじさんが 「ワシがしっとる」とバイクで先導して
くださいました。連れてきて頂いたのがこの駐車場です。非常に助かりました。アリガトウございました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

駐車場からこの鳥居を潜ると 境内へ入れます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

境内に入ると正面に拝殿が見えます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿もなかなか立派です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

後でわかりましたが 駐車場と反対側の鳥居が表参道のようです。これがその鳥居です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

表参道から入ると 古めかしい石造が並んでいます。とても古い神社のようです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

表参道から入ると大きな池もありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿の中を覗くと 正面は「天津社」と書いてありました。
沼川神社は 左の額に書いてあります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿の奥に天津社本殿と沼川神社本殿が並んでいます。
こちらは沼川神社です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここにも卑字が使われています。もっと自分たちの祖先に対し尊敬の念を持って欲しいものです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

建物は残念ながら 大社造りとは縁遠い者でした。
こんな卑字をへいきで使うくらいだからあまり希待してなかったのですが。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

おまけに千木は 徐福らの子孫、物部式の横削ぎです。いかんなあ。糸魚川市教育委員会。
もっと神社建築を勉強しないと。「教育」の名が 泣きますよ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿のうらに もう一つあるのが天津社本殿です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こちらは天津社の千木ですが、なんと出雲式のタテ削ぎです。
糸魚川市の教育委員会さん、完全に千木を間違えていますよ。

出雲王家の姫に物部の千木をつけて、物部の千木に出雲式の千木をつけて。
天津社が何故物部の社かと言うと次の主祭神 を見ると分かります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

昭和20年製作むと書いてあり古いので 読みづらいのですが 主祭神 は「ニニギの命」「アメノコヤネの命」
と読めます。

徐福が出雲から一旦秦国へ帰り更なる資金と海童を始皇帝から授けられて二度目に来日したのは
浮杯の地です(今の佐賀県)。出雲に上陸したときは「火明り(ホアカリ)」と名乗り
二度目に上陸した後は饒速日(にぎはやひ)と名乗ります。

それで 徐福の子孫の物部家の人たちは徐福の名を隠すため「ニニギの命」と呼びました。
「にぎはやひ」の「にぎ」を強調して「ニニギ」として「にぎはやひ」を隠して徐福を消したのです。

そしてアメノコヤネとはもちろん不比等など藤原氏がでっち上げた自分たちの祖先の名前ですね。
つまり天津社は徐福と藤原一族を祀っているのです。

ということは天津社は 記紀が出来てから 時の最高権力者右大臣藤原の不比等に護摩すりをするために
あとから取って付けられたものだというのが分かります。

恐らく始めは沼川姫の越の実家に着いて来た出雲族の人たちが 沼川姫だけを祀っていたのでしょう。
次に諏訪大社の写真を看れば分かります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

沼川神社のパンフレットの中の 沼川姫の像です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
諏訪大社の写真 2011年8月3日に訪ねたときのものです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

諏訪湖の朝です。前夜はここの駐車場で車中泊して目が覚めると諏訪湖の真ん中にどなたか立っています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

沼川姫です。諏訪地方では絶大な尊敬を集めている 建御名方(タテミナカタ)の御母堂です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

諏訪大社の説明看板です。もちろん主祭神 は建御名方(タテミナカタ)です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

沼川姫の説明看板です。沼川姫は越の国の人だと、そして糸魚川が本社だと書いてあります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※この説明文では 沼川姫をきちんと説明し、越の国(高志)の沼河姫と書いています。
 糸魚川市のような 卑字を使っていないところが偉い。意図氏がワシ教育委員会は
もっと勉強して自分たちの祖先を尊敬しなさい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

諏訪大社下社秋宮です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

諏訪大社下社春宮です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

諏訪大社上社です。いずれもとても大きな神社で 主祭神 は建身名方(タテミナカタ)です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

なんと諏訪大社上社の境内には 大国主が祀られていました。
びっくりしました。おいおいそれは違うだろう。タテミナカタの父上は事代主ー八重波津身ですよ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
美保ススミの命のこと
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
沼川姫には娘皇女も居ました。当時八重波津身と暮らしていた宮殿は今の島根県松江市美保関にありました。
父君の事代主が殺害された後は 東出雲王家向家は美保関に美保神社を建てて事代主を祀りました。
沼川姫の皇女の美保ススミ姫は越へは帰らず 美保関に残り 父親の魂を祭り続けたといわれています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
当時の出雲王家は 東出雲王家の向家と西出雲王家の神門臣家が交互に主王(役職名は大名持ち)と
副王(役職名は少彦)を4交互に出して 王家を支えていました。少彦の八重波津身(記紀では事代主と書換えられました)
は向家(むかいけ もしくは むきけ)の出身でした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上の新聞記事は 美保ススミ姫が祀られている長野県の神社の石碑が発見されたという記事です。
この神社もいずれ行ってみようと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」トップページはこちらから戻れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


最新の画像もっと見る