神戸泊の翌日、JR快速で大阪に向かう。大阪で二度漬け禁止の串焼きをどうしても喰いたい。梅田の地下街にあると聞いた。確かに朝10時からやっていた。 これぞ大阪!
すっかり酔って、また快速に乗った。着いたのは、晴天の京都駅。さすが変わり身の早い京都だ。その後、新幹線に乗って、一路東京へ。
この小さな旅、振り返れば、高松から姫路→明石、そして、結局はJR快速の直線的「三都物語」であった。どこも中国人や外国人の姿は多かったけれど、気になるのは、一時的な観光景気があったが、街そのものの活気がなかったことだ。
神戸の元町商店街ではシャッターが閉まった店が目立った。立ち寄った蕎麦屋の店主に聞いたら、人件費は嵩んで遅くまで営業できないとのことだった。
所詮、経済も人口も東京一極集中のなかで、大阪都構想は、橋下天皇が言うような「二重行政と税金の無駄の解消」ではなく、屋上屋の無駄を重ね、大阪市の人材と財政を大阪府に吸い上げられるだけの事と、やんちゃな天皇のエゴ、それだけの成果だろう。たぶん何もしない事が正解なのだろうが、ここで何かをしないと、関西はずるずると苦しくなるだろう。
今までずっと気になっていた東北の被災地に行ってきた。重い3泊4日であった。東北自動車道で仙台に行き、その後は国道45号線で南三陸町、気仙沼、陸前高田、釜石、宮古と被災地を回った。ずっと雨で薄寒い気候だった。
道中、まだ修繕されていない橋やひっくり返った住宅もあった。山間にはひっそりと仮設住宅があり、海に出ると、そこは「ただ何もない」ということだった。人の気配が無い、ともかく町が無く、有るのはうず高く積まれた土の山だった。陸前高田は12メートル嵩上げして区画整理事業を行っていると現地の新聞に出ていた。山間から海が見える港に出る時、津波の高さを表示したポールが現れる。ここまで津波が来たのかと驚かされた。人間の力を超えたどうにもできない水の高さであった。その水位から逃れる高さが12メートルなのかと理解した。地震・津波から3年半、ともかく道路はトラックが多い。復興景気は土を嵩上げする土木事業ばかりのようだ。人がいない、戻っていない、これから土を嵩上げし、元の場所に戻り、また依然と同じように暮らしたい。その気持ちはよくわかる。しかし、そこに人が住み、暮らすためには、まず産業があって、雇用が無ければならないだろう。ところがその見込みがつかない。今は、復興事業の土木関係労働者のための宿泊施設、コンビニや飲み屋は細々と営業しているようだが、他はどうもうまく行っていないようだ。
釜石で一泊したが、最近開店したというイオンが妙に寂しい。雨かも知れないが夕飯時に客がいない。5時に飲み屋に行っても、5時半からだと簡単に断られてしまう。心は全く立ち上がっていない、と感じた。地元の人も言っていた。「ここの店は土、日休んでしまう」と。
今回の旅で復興の難しさをつくづく感じさせられた。復興はほど遠く、当面は復行に過ぎないが、それでもいい。