2007年 大斎節第3主日 (2007.3.11)
燃える柴 出エジプト記3:1-15
1. わたしは何者でしょう
「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていた」(出エジプト3:1)、という言葉の中には、出エジプト記1章から2章までのところで描かれているモーセの姿からは想像もできないほどの落差がある。あのモーセはどこに行ってしまったのか。そんな疑問もここでは出てこない。
ある日のこと、そういうモーセに神は呼びかける。燃えているのに燃えていない柴の中から呼びかける。現象そのものについての説明は難しい。要するに「不思議な光景」(出エジプト3:3)である。竹取物語の中の「輝く竹」のようなものであろう。重要なことは、その燃える柴の中から神が語られた言葉である。第一声は「モーセよ、モーセよ」である。おそらく、この時モーセはミディアン人らしい名前が付けられ、モーセという名前は使われていなかったであろう。モーセにとって、モーセという名前は「昔の名前」であった。しかし、神はモーセに「モーセ」と呼びかける。これは凄い。「あなたはモーセだよ。モーセ以外の何者でもないよ。思い出せよ、あなたはモーセではないか」。これが神の第1のメッセージである。しかし、この名前はエジプト人が付けた名前である。決して、ヘブライ人の名前ではない。しかし、このエジプト人の名前を自分自身のアイデンティティにするのは他でもないモーセ自身である。神はあえて彼に「モーセ」という名前で呼びかけることによって、彼をモーセ(引き出す者)にする。
2. 「あなたの父の神」
神の第2の言葉は「わたしはあなたの父の神である」という言葉であった。モーセにとって、先祖の神は母の神である。乳母としての母親を通して、もっと厳密に言うと母乳と共に植えつけられた神である。それまで、モーセはこの神に出会っていない。ここで初めて神がモーセに自分自身を現しておられる。しかも、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という自己紹介までしておられる。
3. 「わたしは何者でしょう」
この神の呼びかけに対して、モーセは実に率直に自分の問題を投げかける。「わたしは何者でしょう」(3:11)。この問いこそ、彼の生涯をかけた問いである。自分が何者であるかという問いは、母親が誰かということによって答えが出るわけではない。誰がわたしの父親なのか、ということがより重要である。特に家父長制が強い社会では決定的であろう。このモーセの問いかけに対して神は「わたしは必ずあなたと共にいる」(12節)と答えている。「共にいる」ということがアイデンティティに対する答えであり、モーセにこれからさせようとすることの「しるし(=保証)」であると言う。これも深い答えである。「何者か」というわたしの問いは、「あなたに何をさせようか」という神の意志の裏返しである。これが召命意識(ドイツ語で言う「べルーフ」)である。
この主なる神の答えは、「遣わす」ということと「共にいる」ということにおいて、イエスの生き方と完全に一致する。
4. 「その名は一体何か」
モーセ自身に関する「わたしは何者か」という問いは、神に対する「あなたの名は一体何か」という問いへと反転する。ここから有名な「わたしはある」という神の名前が引き出される。つまり、自己に対するアイデンティティの問題は神のアイデンティティへと呼応する。その答えが「わたしはある」という者である。何か馬鹿にしたような答えである。「わたしはわたしである」ということであろう。それなら、神だけではない。自己のアイデンティティについての問いに対する答えも、「わたしはわたしである」と言ってもいいだろう。というよりも、結局そういう風にしか言えないのではないだろうか。神についての属性、全知、全能、偏在、永遠等をいくら重ねても神について何かを語ったことにはならない。同様に、わたしについても学歴や生まれや、家族関係や経済力等をどれ程重ねたとしてもわたしは何者かという答えは出てこない。「自分探し」ということが流行っている。探すという言葉の中に、「自分」が自分の外にあるような錯覚をしているのではなかろうか。自分自身の外に自分を探したってある筈がないではないか。
わたしのアイデンティティは神から呼びかけられたときにハッキリする。神がわたしを呼んだときの名前がわたし自身である。それ以外に本当のわたしはない。あなたは神からなんと呼ばれていますか。
燃える柴 出エジプト記3:1-15
1. わたしは何者でしょう
「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていた」(出エジプト3:1)、という言葉の中には、出エジプト記1章から2章までのところで描かれているモーセの姿からは想像もできないほどの落差がある。あのモーセはどこに行ってしまったのか。そんな疑問もここでは出てこない。
ある日のこと、そういうモーセに神は呼びかける。燃えているのに燃えていない柴の中から呼びかける。現象そのものについての説明は難しい。要するに「不思議な光景」(出エジプト3:3)である。竹取物語の中の「輝く竹」のようなものであろう。重要なことは、その燃える柴の中から神が語られた言葉である。第一声は「モーセよ、モーセよ」である。おそらく、この時モーセはミディアン人らしい名前が付けられ、モーセという名前は使われていなかったであろう。モーセにとって、モーセという名前は「昔の名前」であった。しかし、神はモーセに「モーセ」と呼びかける。これは凄い。「あなたはモーセだよ。モーセ以外の何者でもないよ。思い出せよ、あなたはモーセではないか」。これが神の第1のメッセージである。しかし、この名前はエジプト人が付けた名前である。決して、ヘブライ人の名前ではない。しかし、このエジプト人の名前を自分自身のアイデンティティにするのは他でもないモーセ自身である。神はあえて彼に「モーセ」という名前で呼びかけることによって、彼をモーセ(引き出す者)にする。
2. 「あなたの父の神」
神の第2の言葉は「わたしはあなたの父の神である」という言葉であった。モーセにとって、先祖の神は母の神である。乳母としての母親を通して、もっと厳密に言うと母乳と共に植えつけられた神である。それまで、モーセはこの神に出会っていない。ここで初めて神がモーセに自分自身を現しておられる。しかも、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という自己紹介までしておられる。
3. 「わたしは何者でしょう」
この神の呼びかけに対して、モーセは実に率直に自分の問題を投げかける。「わたしは何者でしょう」(3:11)。この問いこそ、彼の生涯をかけた問いである。自分が何者であるかという問いは、母親が誰かということによって答えが出るわけではない。誰がわたしの父親なのか、ということがより重要である。特に家父長制が強い社会では決定的であろう。このモーセの問いかけに対して神は「わたしは必ずあなたと共にいる」(12節)と答えている。「共にいる」ということがアイデンティティに対する答えであり、モーセにこれからさせようとすることの「しるし(=保証)」であると言う。これも深い答えである。「何者か」というわたしの問いは、「あなたに何をさせようか」という神の意志の裏返しである。これが召命意識(ドイツ語で言う「べルーフ」)である。
この主なる神の答えは、「遣わす」ということと「共にいる」ということにおいて、イエスの生き方と完全に一致する。
4. 「その名は一体何か」
モーセ自身に関する「わたしは何者か」という問いは、神に対する「あなたの名は一体何か」という問いへと反転する。ここから有名な「わたしはある」という神の名前が引き出される。つまり、自己に対するアイデンティティの問題は神のアイデンティティへと呼応する。その答えが「わたしはある」という者である。何か馬鹿にしたような答えである。「わたしはわたしである」ということであろう。それなら、神だけではない。自己のアイデンティティについての問いに対する答えも、「わたしはわたしである」と言ってもいいだろう。というよりも、結局そういう風にしか言えないのではないだろうか。神についての属性、全知、全能、偏在、永遠等をいくら重ねても神について何かを語ったことにはならない。同様に、わたしについても学歴や生まれや、家族関係や経済力等をどれ程重ねたとしてもわたしは何者かという答えは出てこない。「自分探し」ということが流行っている。探すという言葉の中に、「自分」が自分の外にあるような錯覚をしているのではなかろうか。自分自身の外に自分を探したってある筈がないではないか。
わたしのアイデンティティは神から呼びかけられたときにハッキリする。神がわたしを呼んだときの名前がわたし自身である。それ以外に本当のわたしはない。あなたは神からなんと呼ばれていますか。