2009年 降臨節第1主日 2009.11.29
頭をあげよ ルカ21:25~31
1. 教会暦の最初の主日
教会暦の最初の主日の課題は「時ということ」を自覚することにある。人間が時間というものを意識する条件は時間的余裕である。最初期の信徒たちにとって最大の関心事は「終末」という出来事で、終末を待望するあまりに仕事を辞め、財産を棄ててしまった人もでたぐらいらしい。基本的には終末は「何時か分からないこと」であったが、そのことは同時に「次の瞬間」かも知れない。そのような緊迫感の中では「今」という時間は終末に吸収されて、時間というものを意識する余裕もない。マルコ福音書などを読むと、エルサレムの陥落という政治的出来事と世の終わりという出来事とをほとんど同一のこととして考えていたようで、まさに世の終わり(=エルサレムの陥落)は差し迫った現実であったようである。ところが実際にエルサレムがローマによって滅ぼされても世の終わりではなかった。それを「再臨の遅延」という。
2. 「今」とは何か
そこで初めて、「今」とは何か。今という時間は一体何なのかということを考え始めた。再臨に向かっての「今」とイエスの出来事からの「今」、つまり過去から見た現在と未来から見た現在との関係がルカ福音書の中心的な課題であった。それがルカ福音書の基本的テーマであった。その視点からルカは先行するマルコ福音書を書き直している。
本日の福音書では、世界の終わりについての徴が述べられている。先ず、「太陽と月と星に徴が現れ」次に「地上にも」現れ、「海もどよめく」。そのことにより諸国の人々は非常に不安になるとされる。最近、非常に気になることは異常気象という現象である。日本は昔から四季があるということで生活のリズムが形成されてきた。ところが最近はそのリズムが狂い始めたように思われる。地球の温暖化はますます深刻になりつつある。異常気象、海面の上昇、フロンガスによる成層圏の破壊、等々。天災と人災との境界線が曖昧になり、ますます人々は不安になっている。これらの地球規模で起こる諸現象は、古代の人々ならば、「天体が揺り動かされている」と感じ、そこに「世界の終わりの徴」を見たであろう。わたしたちも、この点では同様に、「地球の終わり」を感じる。
3. 不安な時代
本日のテキストが語る重要なポイントは人間は想定外のことが起こると不安になるということである。その不安があまりにも大きすぎると生きる希望を失い、自棄になり、瞬間的な快楽に走る。そこには着実に自分の責任を果たして生きるという姿勢がない。そのような状況になったとき、いやもう既にそのような状況になっているではないか。そのような状況においてキリスト者は「身を起こして頭を上げよ」(28節)というのがルカのメッセージである。
さて、ルカにとっての「今」とは使徒の時代以後終末までの間を意味し、その時代を「異邦人の時代」(ルカ21:24)であると規定する。いわば神の民にとっての暗黒の時代である。マルコ福音書の表現によれば「苦難」(マルコ13:19,24)の時代である。この時代においてはキリスト者は「身を起こし、頭を上げる」ことができない。じっと忍耐し新しい時代の到来を待つ。この世の人々にとっては想定外の不安が、キリスト者にとっては神のご計画の中で既に想定され、待ち望んでいる「終末の徴」であり、喜びの徴である。
ルカはキリスト者にとって「終末」とは「解放の時」(28節)だと言う。キリスト者「異邦人の時代」では「身を起こし頭をあげる」ことができなかった。そこではキリスト者はひたすら忍耐の時であった。しかし今やその忍耐の時からキリスト者は解放される。
4. 現代の不安
さて、ルカにとっての「今」とはわたしたちにとっての「今」でもある。わたしたちのまわりを見回すと様々な不安が渦を巻いている。人々は原因不明のままで不安に怯えている。そのための様々な対策を練り、施すが決して不安は解決しない。核開発も、宇宙への夢も、軍備も、この不安を取り除かない。そのような状況の中でこそ、キリスト者は神を信じ「身を起こして頭を上げる」。この「身を起こし頭を上げる」という言葉は広くて深い。信仰者のあり方そのものを示す言葉である。人々が不安におののく中でキリスト者は決然と立ち上がり、頭をあげる。それは不安に怯える人々にとっては希望の徴となる。神を信じる人間の本当の強さが発揮される時でもある。
使徒パウロも言うように、世界が不安の中にあるときにこそ、キリスト者は「今や、恵みの時、いまこそ、救いの日」(1コリント6:2)というメッセージを語るべき時である。
キリスト者は自分たちだけが救われたらいいとは思っていない。すべての人々の救いを願っている。だから苦難の時代においても逃げ出さないで忍耐をもってそこに留まる。しかし人々が不安に怯え生きる希望を失ったとき、立ち上がり人々に神の救いの到来を語る。
頭をあげよ ルカ21:25~31
1. 教会暦の最初の主日
教会暦の最初の主日の課題は「時ということ」を自覚することにある。人間が時間というものを意識する条件は時間的余裕である。最初期の信徒たちにとって最大の関心事は「終末」という出来事で、終末を待望するあまりに仕事を辞め、財産を棄ててしまった人もでたぐらいらしい。基本的には終末は「何時か分からないこと」であったが、そのことは同時に「次の瞬間」かも知れない。そのような緊迫感の中では「今」という時間は終末に吸収されて、時間というものを意識する余裕もない。マルコ福音書などを読むと、エルサレムの陥落という政治的出来事と世の終わりという出来事とをほとんど同一のこととして考えていたようで、まさに世の終わり(=エルサレムの陥落)は差し迫った現実であったようである。ところが実際にエルサレムがローマによって滅ぼされても世の終わりではなかった。それを「再臨の遅延」という。
2. 「今」とは何か
そこで初めて、「今」とは何か。今という時間は一体何なのかということを考え始めた。再臨に向かっての「今」とイエスの出来事からの「今」、つまり過去から見た現在と未来から見た現在との関係がルカ福音書の中心的な課題であった。それがルカ福音書の基本的テーマであった。その視点からルカは先行するマルコ福音書を書き直している。
本日の福音書では、世界の終わりについての徴が述べられている。先ず、「太陽と月と星に徴が現れ」次に「地上にも」現れ、「海もどよめく」。そのことにより諸国の人々は非常に不安になるとされる。最近、非常に気になることは異常気象という現象である。日本は昔から四季があるということで生活のリズムが形成されてきた。ところが最近はそのリズムが狂い始めたように思われる。地球の温暖化はますます深刻になりつつある。異常気象、海面の上昇、フロンガスによる成層圏の破壊、等々。天災と人災との境界線が曖昧になり、ますます人々は不安になっている。これらの地球規模で起こる諸現象は、古代の人々ならば、「天体が揺り動かされている」と感じ、そこに「世界の終わりの徴」を見たであろう。わたしたちも、この点では同様に、「地球の終わり」を感じる。
3. 不安な時代
本日のテキストが語る重要なポイントは人間は想定外のことが起こると不安になるということである。その不安があまりにも大きすぎると生きる希望を失い、自棄になり、瞬間的な快楽に走る。そこには着実に自分の責任を果たして生きるという姿勢がない。そのような状況になったとき、いやもう既にそのような状況になっているではないか。そのような状況においてキリスト者は「身を起こして頭を上げよ」(28節)というのがルカのメッセージである。
さて、ルカにとっての「今」とは使徒の時代以後終末までの間を意味し、その時代を「異邦人の時代」(ルカ21:24)であると規定する。いわば神の民にとっての暗黒の時代である。マルコ福音書の表現によれば「苦難」(マルコ13:19,24)の時代である。この時代においてはキリスト者は「身を起こし、頭を上げる」ことができない。じっと忍耐し新しい時代の到来を待つ。この世の人々にとっては想定外の不安が、キリスト者にとっては神のご計画の中で既に想定され、待ち望んでいる「終末の徴」であり、喜びの徴である。
ルカはキリスト者にとって「終末」とは「解放の時」(28節)だと言う。キリスト者「異邦人の時代」では「身を起こし頭をあげる」ことができなかった。そこではキリスト者はひたすら忍耐の時であった。しかし今やその忍耐の時からキリスト者は解放される。
4. 現代の不安
さて、ルカにとっての「今」とはわたしたちにとっての「今」でもある。わたしたちのまわりを見回すと様々な不安が渦を巻いている。人々は原因不明のままで不安に怯えている。そのための様々な対策を練り、施すが決して不安は解決しない。核開発も、宇宙への夢も、軍備も、この不安を取り除かない。そのような状況の中でこそ、キリスト者は神を信じ「身を起こして頭を上げる」。この「身を起こし頭を上げる」という言葉は広くて深い。信仰者のあり方そのものを示す言葉である。人々が不安におののく中でキリスト者は決然と立ち上がり、頭をあげる。それは不安に怯える人々にとっては希望の徴となる。神を信じる人間の本当の強さが発揮される時でもある。
使徒パウロも言うように、世界が不安の中にあるときにこそ、キリスト者は「今や、恵みの時、いまこそ、救いの日」(1コリント6:2)というメッセージを語るべき時である。
キリスト者は自分たちだけが救われたらいいとは思っていない。すべての人々の救いを願っている。だから苦難の時代においても逃げ出さないで忍耐をもってそこに留まる。しかし人々が不安に怯え生きる希望を失ったとき、立ち上がり人々に神の救いの到来を語る。