これまで、詰合い、伸合いが本質であり、手の内はその延長という説明をしてきた。当然、このことは正しいと信じているわけだが、だからといって手の内が重要でないとは考えていない。
むしろ、手の内の完成によって初めて、詰合い、伸合いは完成する。詰合いについては、手の内が弓手の延長であるから当然のこととして、伸合いについても実は手の内が大きく関連しているのである。
このことについて少し詳しく見ていこう。
手の内の役割は、前回の「受ける手の内」で説明したように、弓力の圧(弓からまっすぐ押される圧)とねじれの圧を全てもらさず蓄えることにある。
特にねじれの圧を蓄えることが本質的な役割なのだが、もしこれが働かなかったとしたら、伸合いはどうなるだろうか?
もし手の内でねじれの圧を受け切ることなしに伸びあったとしたら、これは開いていく伸合いになる。ちょうど、徒手で伸び合っているのと同じ状態である。
実際に徒手で伸び合うとわかるのだが、最深の会に入ってからさらに伸びあうためには、胸を開き、背の下方に向かって開いていかざるを得ない。
これは伸合いとしては正しい伸合いである。(「どの方向に伸び合えばよいか?②」参照)
しかし、手の内が完成すると、これと全く同じ動作をしても、全く違う作用が働く。それは「的に向かってまっすぐに伸び合う」という作用だ。
正しい手の内によってねじれの圧を逃すことなく蓄えるようになると、ただ胸を開いていったのでは弓が手の内の圧に引っかかり、完全に会に入ることができないということが起きる。
ところが、逆に、まるでこれを解消するかのように、ねじれの圧に大して反対の作用が手の内で働く。つまり、角見を通して的に向けてまっすぐに押す作用だ。(これをぜひ体感してもらいたい)
これは前回も書いたように、意識的に押すのとは全く違う。あくまで手の内は弓力を受けているだけなのだが、そこに働くねじれの圧への反作用として、角見を通して的に向けてまっすぐの力が働くのだ。
いわば、手の内は、背中と弓手による開く力を、的に向けてまっすぐに伸ばしていく力に変換する機能を担っているのである。
このようにして会に入ると、自分の力だけでは到底及ばないくらい深いところまで伸び合うことができる。しかも、弓手はまっすぐに伸びているから、離れでほとんど弓手が動くことがない。
不動の弓手から生まれる離れは限りなく鋭く、矢飛びは限りなく軽い。
むしろ、手の内の完成によって初めて、詰合い、伸合いは完成する。詰合いについては、手の内が弓手の延長であるから当然のこととして、伸合いについても実は手の内が大きく関連しているのである。
このことについて少し詳しく見ていこう。
手の内の役割は、前回の「受ける手の内」で説明したように、弓力の圧(弓からまっすぐ押される圧)とねじれの圧を全てもらさず蓄えることにある。
特にねじれの圧を蓄えることが本質的な役割なのだが、もしこれが働かなかったとしたら、伸合いはどうなるだろうか?
もし手の内でねじれの圧を受け切ることなしに伸びあったとしたら、これは開いていく伸合いになる。ちょうど、徒手で伸び合っているのと同じ状態である。
実際に徒手で伸び合うとわかるのだが、最深の会に入ってからさらに伸びあうためには、胸を開き、背の下方に向かって開いていかざるを得ない。
これは伸合いとしては正しい伸合いである。(「どの方向に伸び合えばよいか?②」参照)
しかし、手の内が完成すると、これと全く同じ動作をしても、全く違う作用が働く。それは「的に向かってまっすぐに伸び合う」という作用だ。
正しい手の内によってねじれの圧を逃すことなく蓄えるようになると、ただ胸を開いていったのでは弓が手の内の圧に引っかかり、完全に会に入ることができないということが起きる。
ところが、逆に、まるでこれを解消するかのように、ねじれの圧に大して反対の作用が手の内で働く。つまり、角見を通して的に向けてまっすぐに押す作用だ。(これをぜひ体感してもらいたい)
これは前回も書いたように、意識的に押すのとは全く違う。あくまで手の内は弓力を受けているだけなのだが、そこに働くねじれの圧への反作用として、角見を通して的に向けてまっすぐの力が働くのだ。
いわば、手の内は、背中と弓手による開く力を、的に向けてまっすぐに伸ばしていく力に変換する機能を担っているのである。
このようにして会に入ると、自分の力だけでは到底及ばないくらい深いところまで伸び合うことができる。しかも、弓手はまっすぐに伸びているから、離れでほとんど弓手が動くことがない。
不動の弓手から生まれる離れは限りなく鋭く、矢飛びは限りなく軽い。